来たるべき「非在の音」に向けて――特殊音楽考、アジアン・ミーティング・フェスティバルでの体験から 細田成嗣

来たるべき「非在の音」に向けて――特殊音楽考、アジアン・ミーティング・フェスティバルでの体験から
細田成嗣
「民俗」(folk)や「未開」(primitive)という用語と同様に知識階級の自民族優越思想の跡をとどめている「民族的なもの」(ethnicity)について語るのではなく

――ホセ・マセダ(1)

東洋とか西洋とかいうことばは、漠然たる位置と内容をあらわすには、たいへん便利なことばだけれど、すこし精密な議論をたてようとすると、もう役にたたない。

――梅棹忠夫(2)

考えてみれば、「アジア論」とは、ヨーロッパが思いつきで与えたオリの中でのからさわぎのことではないだろうか

――田中克彦(3)

(1) ホセ・マセダ『ドローンとメロディー 東南アジアの音楽思想』(高橋悠治訳、新宿書房、1989年)48頁。
(2) 梅棹忠夫『文明の生態史観』(中公クラシックス、2002年)101頁。
(3) 田中克彦「もううんざり、義理の「アジア」」(『「アジア」を考える』、藤原書店編集部編、藤原書店、2015年)69頁。

序、あるいはナショナリズムとグローバリズムのあいだに

 最悪のナショナリズムが蔓延している。自らの素性が明らかでないことに付け込んで排外主義的な差別感情を剥き出しにするインターネット上に溢れた言葉の群れ。出来事の一部を恣意的に切り取り徒らに国家間の対立感情を煽り立てているマスメディア。右傾化にひた走る日本政府の動きはあらためて述べるまでもないが、ことは国内にとどまらず、国連の制裁決議に耳を貸すことなく攻撃的姿勢を続ける独裁国家、あるいはそれを巡って、分断を加速する白人至上主義政権が出来したアメリカも暴走し、中国やロシアとの距離は開く一方であり、また、イギリスが離脱を表明した欧州連合は崩壊寸前を彷徨うなど、いたるところで自民族と自国家の利益を最優先するナショナリズムが横行している。

 他方で全世界的な経済のグローバリズムは国境を越えてほとんどタイムラグのない一体化をなしている。啀み合うかのような国家と国家の分断をよそに市民は容易く異国間で繋がり合っている。こうした現代におけるナショナリズムとグローバリズムの乖離を、国家と市民社会が、政治と経済が、思考と欲望が、それぞれ分離したまま異質な秩序を形成しているとして、哲学者/批評家の東浩紀は「二層構造の時代」と言い表した(1)。そしてヘーゲル流の「成熟」ではなく、「市民が市民社会にとどまったまま、個人が個人の欲望に忠実なまま、そのままで公共と普遍につながるもうひとつの回路」(2)を見出すために、東は「観光客=郵便的マルチチュード」を提起する。それはネグリ=ハートが主張した「マルチチュード(群衆)」という概念が、「本来は存在するはずのない連帯が、まさにその連帯の不可能性を媒介としてつくりだされる」(3)ために「否定神学的」であるのに対して、「たえず連帯しそこなうことで事後的に生成し、結果的にそこに連帯が存在するかのように見えてしまう、そのような錯覚の集積がつくる連帯」(4)である。あたかも即興音楽における連帯=協働作業のありようが、たえず失錯行為とすれ違いに晒されていながら、つねに事後的にしかどのような音楽であったのか見出されることがなく、にもかかわらず結果的には音楽的な「セッション」が成り立っていたように聴こえることにも似ている(5)。そしてさらに「郵便的マルチチュード」を「帝国と国民国家の隙間から生まれたノイズであり、私的な欲望で公的な空間をひそかに変容させるだろう」(6)と東が述べるとき、ここにその一つの具体的実践としてアジアン・ミーティング・フェスティバル(以下AMF)を想起することもできる。

 2014年、同年4月に発足した国際交流基金アジアセンターの主催のもと、アーティスティック・ディレクターに大友良英を迎えたアンサンブルズ・アジアというプロジェクトが始動した。その主要三事業のなかの一つであるアジアン・ミュージック・ネットワーク(7)の活動における成果発表の場としてのショーケース・イベントがAMFであり、「多様なバックグラウンドを持ったアーティストたちが共に新たな音楽の可能性を追求できるようなコラボレーション・モデル」(8)の提示としてほぼ年に一回のペースで開催されてきた。AMFは香港在住のdj sniffとシンガポール在住のユエン・チーワイがキュレーターを務め、2015年の第一回が東京および京都で、2016年の第二回が都内三箇所、神戸、京都二箇所の計六箇所でおこなわれ、さらに16年末には初の海外進出を果たし、シンガポールとクアラルンプールにて第三回が開催された(9)。第四回となる2017年のAMFは、福岡、京都、仙台、札幌と列島を縦断するようにして、東京一極集中を回避した四都市を駆け巡る初の全国ツアーとして開催された。だがAMFの出発点はもともと大友良英が2005年に新宿ピットインでおこなった自主企画にまで遡ることができる。大友が主導したアジアン・ミーティング(10)は2008年、09年にも開催されており、それらも含めると2017年のAMFは第七回ということになる。

 AMFの他に類を見ない特徴の一つは、アジア各地の知られざる「実験的」なミュージシャンが一堂に会する貴重な出会いの場になっているということだ。インターネットが普及した現在、まるでアンダーグラウンドもオーバーグラウンドも無化され、あらゆる情報がフラットに手に入るようになったと思われがちだが、実際にはそうでもなく、むしろこうした考え方にはインターネットで検索できない音楽を不可視のものにしてしまう危険が潜んでいる。とりわけアジア間における交流を疎隔する大きな理由の一つに言語の問題が挙げられる(11)。わたしたちは欧米諸国の音楽を検索するようには近隣諸国の音楽を見つけ出すための言葉を持たず、さらにアジア諸国で辛うじて共通語としての役割を英語が果たしていることは、隣国の音楽を知るためにはいちど英語圏を通さなければならないという、ある種の被植民地的状態に陥っているとも言える。もう一つの理由は政治的分断だ。主に1980年代以降進行したアジア各地の民主化によって、それまでと比べれば自由な行き来が可能になったとはいえ、たとえば2015年の時点でもなお中国で日本人が自由にライヴ・イベントを開催できないという現実もある(12)。AMFの実践はそうした懸隔に双方向的な道を開き、各個人の顔を突き合わせた交流をもたらすことだろう。それもグローバル経済の原理によるのではなく、あくまでも文化的な強度を伴いながら。

(1) 東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』(株式会社ゲンロン、2017年)。
(2) 同前書、127頁。
(3) 同前書、150頁。
(4) 同前書、159頁。
(5) 言うまでもなくこうした特徴は真っ先に「幽霊」に当て嵌まる。いわば「幽霊的」な即興演奏こそが「郵便的」である。反対に「否定神学的」なセッションとしては、たとえばジャンルの共約不可能性が成立の根拠になっているジョン・ゾーンの「コブラ」を挙げることができるだろう。
(6) 同前書、160頁。
(7) アジアン・ミュージック・ネットワークはdj sniffとユエン・チーワイがプロジェクト・ディレクターを務めている。
(8) Asian Music Network公式サイト「about」(http://asianmusic-network.com/about/)より。
(9) シンガポール公演はチーワイが参加するバンドのジ・オブザバトリーが主催するプレイ・フリーリーと共同で、クアラルンプール公演はコック・シューワイとヨン・ヤンセンが主催するKLEXフェスティバルと共同で開催された
(10) 本稿では山本佳奈子に従って「アジアン・ミーティング・フェスティバル」と「アジアン・ミーティング」を分けて記すことにする。次を参照。「筆者の表記分けとしては、前者(註:AMF)は国際交流基金アジアセンター主催のもとに大友良英をアーティスティックディレクターとして迎えた2014年以降のものを指す。また後者の「アジアン・ミーティング」とは、それ以前に大友良英が個人企画イベントとして開催したものを指す。(......)なお、以前のアジアン・ミーティングも、正式名称は「アジアン・ミーティング・フェスティバル」であるが、当時の大友良英ブログ(大友良英のJAMJAM日記)などでは「アジアン・ミーティング」と略称されることが多かったため、略称表記を採用している」。山本佳奈子「Asian Meeting Festivalの価値、ネットワークの実体」http://asianmusic-network.com/archive/2016/12/asian-meeting-festival-with-playfreely.html
(11) たとえば大友良英は次のような実感を述べている。「日本の隣国「韓国」はぼくらにとっては近くて遠い国だ。そこにはもちろん、日本が朝鮮半島を植民地化していた歴史の問題もある。が、そういった大局的な問題ではなく、もっと現実に、今現在、ぼくら日本のミュージシャンが韓国のミュージシャンと交流するにあたって何よりも大きな障害となるのは、実は言葉の問題なのだ。例えば欧州のミュージシャンが交流する際に使われる「英語」のような共通の言語を、ぼくら東アジアの人間たちは持っていない」(『Improvised Music from Japan 2004』IMJ、2004年、80頁)。
(12) 山本佳奈子「公演キャンセル、そして開催されたシークレット公演:Multiple Tap上海」https://offshore-mcc.net/column/513/。dj sniffも「多くのアジアの国々では音楽やアートは検閲の対象とされ、インターネットで得られる情報は限られている」(「アジアン・ミーティング・フェスティバル 2016」http://asianmusic-network.com/archive/2015/12/festival-2016.html)と書き記している。

1:他者への眼差し、あるいはローカル・ミュージックの実験性

 AMFの出発点は2005年のアジアン・ミーティングに索めることができると述べたものの、さらにそこから遡ること20年、1985年にアジア間の「実験的」な音楽の交流を促す先駆的な試みがなされていた。日本フリー・ジャズ第二世代のトランペット奏者、近藤等則がオーガナイズした東京ミーティングと題するイベントがそれである(1)。主に欧米のミュージシャンが招聘されていた前年の第一回(2)に対して、85年の第二回では近藤が率いるIMAに加えて、韓国の芸能集団サムルノリ――のちに舞台芸術としてジャンル化した「サムルノリ」の原点となった金徳洙(キム・ドクス)率いるグループ――、そして姜泰煥(カン・テーファン)、崔善培(チェ・ソンべ)、金大煥(キム・デファン)からなる韓国初のフリー・ジャズ・トリオが出演した。後者のトリオはこのイベントで初来日を果たし、その後トリオとしては解散に至るものの、サックス奏者の姜泰煥は引き続き複数回にわたって来日公演をおこなうことになる。それまでほとんど交流のなかった日本と韓国の「実験的」な音楽シーンのあいだにネットワークを築き上げたという点で、たしかに東京ミーティングはAMFの実践に先鞭をつけた。だが東京ミーティングという名のイベントはこの二回で終わることになる(3)。

 とはいえ2005年に大友が企画したアジアン・ミーティングに大きな影響を与えたのは、近藤等則の活動ではなく、韓国に拠点を移してインディペンデントな活動を続け、2003年からはソウルで「プルガサリ」という前衛音楽イベントを主催しているギタリストの佐藤行衛だった(4)。そして大友はその動機についてさらに次のように述べている(5)。直接的な理由としては何よりもまず、彼自身の「第二の故郷」である香港や、そのころ頻繁に足を運んでいた韓国・ソウルおよび台湾において、新しく特異な音楽が出現していたということを、ここ日本にも広く知らせたいという思いがあった。そのうえで挙げるもう一つの間接的な理由が、2005年当時の中国において暴徒化した反日デモが日本料理店を襲撃するなど、国家と国家の分断から個々人の関係性を解放する必要に迫られる出来事に直面していたということである。そして後者の点において東京ミーティングとアジアン・ミーティングはその慎重さを異にしているのである。

 実は1985年当時、東京ミーティングは苛烈な批判に晒されることにもなったのだった。何故か。それは開催地に問題があった。第二回の東京ミーティングは当時まだ開園して2年と経っていなかった国営昭和記念公園でおこなわれた。言うまでもなくこの公園は昭和天皇を記念するものとして造園されており、さらに歴史を遡ればその場所はもともと太平洋戦争における大日本帝国陸軍の一大拠点となった立川陸軍飛行場である。大戦中に日本と韓国がどのような関係にあったのかはあらためて述べるまでもないだろう。そこに韓国のミュージシャンを呼んだのだ。この点に関してたとえば音楽批評家/大正琴奏者の竹田賢一は「この会場の選択は全く思慮に欠けたものに映る」(6)と痛烈な批判を加えたのだった。

 近藤等則の実践は貴重な試みだったとはいえ、こうした批判はアジアにおける日本の歴史的立ち位置を考えれば至極妥当なものでもある。それは音楽の分野においても変わらない。たとえば大日本帝国の暴走が極限まで達しつつあった1944年、東洋音楽学会の創設者の一人としても知られる瀧遼一によって『東洋音楽論』という書物が著された。そのなかでは「蒙古」「満州」「支那」と区分けされた三地域の音楽が紹介される一方で、「大東亜文化の完全な設立」のための「真の新東洋音楽」の建設が叫ばれ、日本は東洋音楽の健全な発達を促すための「東洋民族の指導者としての立場」にあるということが主張されたのだ(7)。西洋音楽一辺倒の時流に逆らって、非西洋音楽に対する聴き手のリテラシーの底上げを図ったことは評価されてよいものの、時代の制約があったとはいえやはりこうした態度は許されるべきではなく、そしてそのような歴史的負い目を忘れるべきでもない。

 この意味で大友はアジアン・ミーティングにおいて自らが関わるネットワークのあり方に対して歴史的かつ地政学的に自覚的であったと言えるだろう。それは「素朴な民族のククリで憎しみ合うような状況を今後絶対に作らないため」(8)でもあった。そしてその意志を受け継いだdj sniffとユエン・チーワイによるキュレーションもまた、こういった部分について非常に敏感なのである。dj sniffはAMFで成し遂げるべきことの一つに「アジア地域から国、世代、性別に偏りのないキュレーションをすること」を挙げつつも、他方ではこうしたポリティカル・コレクトネスが孕む問題にも批判的な眼差しを投げかけ、「自分は国際交流プロジェクトのキュレーターとして万国旗のようなものを提示し」ようとしているのではないか、それは「僕自身が抱いているローカル・カルチャーとそのネットワークのイメージの投射であり、またそのナラティブに彼らを合わせようと緩やかに力を行使していたのではないだろうか」と自らに問いかけている(9)。あるいはチーワイもAMFについて「エキゾティックな人を連れてきて、みんなにお見せしますよ、みたいなことにはならないように気をつけた」(10)という発言を残している。このプロジェクトにいまも「アジア」という言葉が冠されていることの意味は、地理的、政治的、経済的あるいは文化的に結託した共同体の構想――東アジア共同体構想にみられるようなそれ――が目指されているのではなく、あくまでもこうした歴史と社会に対する注意深さを湛えたまま、隔絶された諸地域を貫く出会いの場を設けようとしていたアジアン・ミーティングの志向を、大友から継承しているということに他ならない。

 ならばAMFではどのようなミュージシャンを招聘しているのだろうか。一般的な音楽フェスティバルと大きく異なるのは、多くの参加者が優れた音楽家であるのみならず、音楽の「場」を創出するための精力的な活動をおこなっているということである。その雛形は、「音楽家であると同時に、それぞれの都市のキーパーソンでもあり、昔から私財も投じて様々な企画をやってきている」(11)ことを理由にユエン・チーワイ、ヤン・ジュン、リュウ・ハンキルらと大友良英が2008年に結成したFENに索めることができる。同じようにAMFもまた、「一過性のイベントではなく、(......)アーティスト・コミュニティ間の長期的なネットワーク形成の出発点となるもの」(12)として構想されており、「最も重要な核心部分はフェスが終わってからも自律的に引き継がれるようなアーティスト間の協働の場を用意できたかどうか」(13)だとされている。

 ではより音楽的な意味で、招聘するミュージシャンのユニークネスはどのように見極めているのだろうか。この点に関してdj sniffとユエン・チーワイは非常に興味深い調査結果を報告していた。すなわち彼らによれば、東南アジアにおいて「より実験的な音楽を作っている人たちはエクスペリメンタルやインプロビゼーションといった欧米や日本ではある程度確立した音楽の枠組みの中ではなく、フォーク、メタル、パンク、ヒップホップなどのポピュラーなジャンル、そして伝統音楽との関係性の中で自分たち独自の音楽を追求している」(14)ようなのだ。言い換えるならば音楽の「実験性」がそれ自体として単立するものではなく、既成のジャンルとの関係性において見出されているのである。そしてこのことは「ある程度確立された枠組み」が想定されている日本や欧米においてもまた当て嵌まることのように思われる。つまりAMFに出演しているミュージシャンの多くはこの枠組みに収まりきるものではなく、むしろその音楽は日本や欧米で確立された既成のジャンル――たとえばフリー・インプロヴィゼーションやノイズ・ミュージック、あるいは現代音楽、フリー・ジャズ、サウンド・アート等々――に対する侵犯/逸脱の実践として捉えることができるのである。自らが寄って立つ既成のジャンルが一方では「ポピュラーなジャンル」「伝統音楽」であり、他方では「エクスペリメンタルやインプロビゼーション」なのだ。いわばここに見られるのはどちらも音楽の「実験性」を介することによって浮かび上がる各個人のローカリズムのあらわれである(15)。もちろんAMFに参加した彼ら/彼女らはいかなる国も、あるいはその地域ですら代理=表象するものではない。だが決して歴史からも地理からも自由な均質化された個人なのでもない。ここにはあくまでも自らのローカルな出自に根を張りつつ、しかしその寄って立つ足場をそれぞれに突き崩していく「実験的」な音楽行為がある。

(1) 第二回の東京ミーティングの概要に関しては次の論考内で詳細に描かれている。北里義之「音のデルタ地帯で掘立て小屋を建てる試み」(『ジャズ批評56号』1986年、『ジャズ批評57号』1987年)。また、北里は2005年のアジアン・ミーティングに言及した際に東京ミーティングの記憶に触れながら、「いずれも、ジャズや即興演奏の受容においてすら、明治以来の輸入文化/翻訳文化のスタイルを踏襲し、あくまでも欧米中心に行なわれてきたこの国のモダンの伝統を、アジアを起点に置くことで脱中心化しようとする試みと評価できる」と述べている(北里義之「シグナル・トゥ・ノイズ 第6巻」mixi内のエントリー、2008年)。
(2 )第一回ではペーター・ブロッツマンやビル・ラズウェルら、ヨーロッパおよびアメリカのいわゆるフリー・ミュージックの担い手に加えて、渡辺香津美、坂本龍一、さらに高橋悠治など錚々たるメンバーが参加しており、この時の演奏はのちにカセット・ブックとして音源化されている。『カセット・ブックTOKYO MEETING 1984』(冬樹社、1985年)。
(3) ただし同1985年にはソウル・ミーティングが、1991年と92年には近藤の出身地でもある愛媛県にて今治ミーティングが開催された。
(4) 大友良英『大友良英のJAMJAM日記』(河出書房新社、2008年)272頁。
(5) 同前書、366頁。
(6) 竹田賢一「東京ミーティング85」(『ミュージック・マガジン 1985年11月号』ミュージック・マガジン、1985年)140頁。
(7) 瀧遼一『東洋音楽論』(弘学社、1944年)。
(8) 大友良英『大友良英のJAMJAM日記』(河出書房新社、2008年)272頁。
(9) dj sniff「即興、協働、片言 - アジアン・ミュージック・ネットワークとAMFを振り返って」http://asianmusic-network.com/archive/2017/09/---amf.html
(10) 「ユエン・チーワイ インタビュー」http://asianmusic-network.com/archive/2016/04/post-1.html
(11) 鼎談「アジアで、しなやかなネットワークを築く」http://artscape.jp/focus/10106671_1639.html
(12) ユエン・チーワイ、dj sniff「アジアン・ミーティング・フェスティバル 2016」http://asianmusic-network.com/archive/2015/12/festival-2016.html
(13) dj sniff「即興、協働、片言 - アジアン・ミュージック・ネットワークとAMFを振り返って」。
(14) ユエン・チーワイ、dj sniff「アジアン・ミーティング・フェスティバル 2016」。
(15) 「〈ローカル〉とは「現地」という意味である。(......)一定の境界線で囲われた領土的実体ではなく、原則としてどこにでも成立しうる流動的な領域である」。昼間賢『ローカル・ミュージック』(インスクリプト、2005年)8頁。

2:器楽演奏と伝統――グエン・タン・トゥイ、余家和

 かつて東洋音楽研究者の黒沢隆朝は東南アジアを指して「世界楽器史博物館」と言った が、用途も形状も複雑さの度合いも異なる夥しい種類の楽器は、たしかに思わず世界の広さと歴史の深さを想起させてしまうほどに多様である。だがそれは単に種類が豊富というだけでなく、たとえばセバスチャン・ヴィルドゥングによって西洋楽器を基準に設けられた管楽器/弦楽器/打楽器という三分法や、ザックス=ホルンボステルによって音の物理的発生源――これを基準にすることそれ自体が西洋的眼差しだ――を根拠に設定された楽器分類法から逸脱するものでもあり、翻ってみるならば、それらの分類法の恣意性をあらためて問い直すための視座をもたらしてくれる。

 他方ではこうした豊穣な種類の楽器はおしなべて「伝統楽器」あるいは「民族楽器」という名のもとに語られてきた。すなわち非西洋世界の国家や民族の音楽を担うための道具と見なされてきた。だがバリ島のケチャがドイツの画家ヴァルター・シュピースの提案をもとに1933年から始まっていることや、日本の組太鼓がもともとジャズ・ドラマーの小口大八によって1951年に考案されたことからもわかるように、人々の「伝統音楽」に対する認識は曖昧であり、さらに突き詰めてみるならばあらゆる「伝統」は究極的にはその根拠を持たない。「伝統」のこうした無根拠性/偶然性は、自らのローカルな出自と逃れ難く関係する楽器と音楽の必然性から、新たな根拠地を掴み取るための自由な実践へと突き進む原動力ともなるだろう。

P5720822のコピー.jpg1977年ベトナム・ハノイに生まれ、現在はスウェーデンを拠点に活動するグエン・タン・トゥイは、ベトナムの伝統楽器ダン・チャインの使い手である 。ダン・チャインは日本の箏によく似た楽器だが、まろやかで太い響きが特徴的な箏に比してそのサウンドは硬質かつ煌びやかであり、音に関してはどちらかと言えばカーヌーンやツィターの方が近い。ベトナム伝統演劇の俳優を務める両親のもとで生まれ育ったトゥイがこの楽器に親しみその魅力の虜になっていったのは、ある意味では必然的な成り行きだった。そして1998年にダン・チャインのコンテストで最優秀賞を受賞した彼女は伝統音楽の担い手として一つの頂点を極めることになる。しかし2000年以降はフランスから帰国したグエン・ティエン・ダオとイア・ソラという二人の作曲家から刺激を受け、ダン・チャイン奏者としては前人未踏の「実験的」な音楽世界へと足を踏み入れていく。 現在はジェンダーと身体的動作をテーマに据えた活動をおこなっており、2014年に振付家マリ・ファリンとの共作になる「ヴードゥー・ヴァイブレーション」 を発表、この抜粋が京丹後の旧郷小学校でおこなわれたパフォーマンスのなかで披露された。目の前にダン・チャインを縦に置き、スプーンや菜箸、クリップなどを弦に挟んでプリパレーションを施し、樹木に絡みつく蛇のように両手をゆったりと動かしながら、身振りに付随した偶発的な騒音を発生させていく。腕から先だけが突き出した呪術的な振る舞いは、抜粋とはいえ視覚的な強烈さを伝えるものだった。

 集団即興においては身振りというよりも純粋にその響きに焦点化した演奏をおこなっていたように思う。トゥイの即興演奏は一見すると同じ動作をミニマルに繰り返しているようにも見えるが、ひとたびその響きに耳を傾けてみるならば、動作のたびに色彩を変えゆく万華鏡的な音の世界が開けてくる。ダン・チャインに棒のようなものを落とし、あるいは弓で擦過音を紡ぎ出し、さらには指で弦とボディを弾いて打撃音を差し込む。そして長年培ってきた伝統的サウンドを断片化して音の素材として織り交ぜていくかと思えば、楽器にプリパレーションを施して弦の響きを名づけようもない音そのものへと異化する場面も多々見られた。「伝統」という衣を剥いだダン・チャインがその物質的本性を露わにする。また、AMFのツアーを通して徹底的にアコースティックなサウンドにこだわり抜いたトゥイは、ライヴのなかでときに演奏の手を止めて「聴くこと」に集中していた。福岡アジア美術館でおこなわれたライヴ・イベントの際には、「あまりにも美しい周囲のサウンドに自分が介入すべきではないと判断した」と語っていたが、それは同時に、渦巻くような轟音ノイズのなかでダン・チャインが響く場所を見極めていたということでもあっただろう。おそらく彼女にとって、ジェンダーと身体的動作は、あくまでもそれによって変化するサウンドの探求の果てに聴き取られたテーマであるに違いない。

P5710589のコピー.jpg トゥイが半ば必然的にダン・チャインとの出会いを果たしたように、余家和(イ・カホ)もまたある意味では運命的に伝統楽器奏者としての道を歩んでいった 。マレーシア・クアラルンプールを拠点に活動する余は、多くの華僑が居住することでも知られるシブで1970年に生まれ、物心つく頃には中国の伝統楽器である笛子(ディーズ)にのめり込んでいたという。いまではさらに簫(シャオ)という、尺八にも似た中国の縦笛も吹きこなし、大小様々なサイズのこれらの楽器を駆使した即興演奏に取り組んでいる。だが特殊奏法を開拓することによって楽器の物質性を顕在化していったトゥイとは異なり、余は音の抽象的な組織化の方にその関心の眼差しを向けている。というのもたとえば息音などのノイズの強調やマルチフォニックスの使用といった、ともすればミシェル・ドネダやジョン・ブッチャーを思わせる超絶的な彼の演奏は、あくまでも伝統的な技法に依拠してなされているのである。すなわちわたしたちが「先鋭的」と捉える視点は、ここでは音楽の前提となっているに過ぎない。それは楽器の物質的な可能性の大部分が「伝統」という囲いに覆われているということでもある。そこで余は作曲へと目を向ける。西洋の現代音楽を学び交響曲や室内楽などを手がける一方で、中国の伝統楽器を用いたアンサンブルのための曲も書き、ゼロ年代後半からテン年代にかけて、マレーシア国内での作曲賞はもとより国際的なコンペティションでもその実力を認められるなど、世界的に活躍する作曲家としての地位を築き上げていった。

 そしてこうした作曲家としての取り組みが即興演奏の場面にも影響を及ぼしているのである。共演者が発するサウンドにじっと耳を傾け、そこからなんらかのフレーズを引用したり、あるいはライヴの際に抱いている音への興味関心――それはチャルメラの旋律から微かな葉擦れの響きまで様々だ――をもとにしたりしつつ、熟達した伝統的技法を駆使しながらフレーズの反復と発展を繰り返し、あたかも綿密に計画された協奏曲のような構成的時間を聴かせてくれるのだ。それを彼は「即時的作曲」 と呼んでいる。ここでは即興と作曲が矛盾なく共存しているのである。だがあくまでも「即時的」だ。つまり特異な時間と場所のなかで作曲行為を生きることそれ自体が音響的に表出されているのであり、そしてこうした周囲の環境との相互作用のプロセスこそが「伝統」の囲いを取り外すための第二の鍵となる。旧郷小学校で彼は、直前に鈴木昭男の導きのもとに訪れた、海岸沿いの石切場で接した風の吹き荒ぶ響きや波が岸壁に打ちつける音、あるいは山中奥深くで静寂に包まれながら接した風に揺らめく樹々が立てる微かな響き、そうした様々な自然の相貌を自らの演奏のなかで体現する鬼気迫るパフォーマンスを繰り広げた。それはたとえ霊的直観が含まれていたとしても「東洋音楽の印象」 などとはまったく反対に、「伝統」によって身動きが取れなくなっていた笛子や簫に音楽的な解放をもたらすことだろう。わたしたちがそこで耳にしたのは他でもなく作曲家/即興演奏家の余家和が京丹後で過ごした日々の具体的な痕跡なのだ。

(1) 黒沢隆朝『東南アジアの音楽』(音楽之友社、1970年)63頁。
(2) 以下では次のインタビュー、および直接交わした対話を適宜参照している。「グエン・タン・トゥイ インタビュー」http://asianmusic-network.com/archive/2017/12/post-25.html
(3) 正式名称は「Vodou vibrations sounds of memories of fields and burdens living in translations and broken bows balancing on plateaus while speaking to one self and scratching the surface of the raft while drifting away」。
(4) 以下では次のインタビュー、および直接交わした対話を適宜参照している。「イ・カホ インタビュー」http://asianmusic-network.com/archive/2017/11/post-23.html
(5) 「インスタント・コンポジション」のことだが、同じ呼び方をしたミシャ・メンゲルベルグの文脈との混同を避けるため、あえて「即時的作曲」と表記した。
(6) 田辺尚雄『東洋音楽の印象』(人文書院、1941年)。

3:声の使用法――張惠笙、C・スペンサー・イェー

 器楽演奏と伝統が音楽家のローカルなあり方と少なからず結びついていたのに対して、声によるパフォーマンスはより普遍的であるように見える。もちろん声の用い方は文化によってそれぞれに異なるものの、声を用いることそれ自体は、なにも音楽の場面に限ることなく、日常に息づきながらわたしたちの周りに反響している。音楽批評家の北里義之は、こうしたいわば根源的なものとしての具体的な声に加えて、「いま・ここ」という有限性を超えて到来する「呼びかけ」を、あらゆるサウンドに見出し得る抽象的な〈声〉として論じたことがある(1)。しかしフランス文学者/音楽批評家の昼間賢が指摘したように、すでにして特権的な場所として「いま・ここ」はあるのではなく、まさしく〈声〉による場所の変容によってこそ語られるべき「いま・ここ」は現出する(2)。

 ならば具体的な声を用いたパフォーマンスが〈声〉としてあらわれるとき、それは根源的/普遍的でありながら同時に特異的でもあるローカルな営みとして響くだろう。声がその持ち主とイコールで結ばれているからではない。「声を発することは、声を発するという行為を支える状況性と、声を発する者の現前性と、声の向けられた相手の特定性とをまきぞえにして成り立っている」(3)と書いたのは文化人類学者の川田順造だが、つまり発された声は持ち主の現前性を湛えながらもそこから離れ、状況と志向性が複雑に絡み合うことによって新たな価値の創出へと向かう。それこそがローカルな「いま・ここ」の出来だ。そして声による「呼びかけ」は二つの方向性を指し示しもするだろう。声は世界を知るための道具であるとともに、世界を生み出すための道具でもあるのだから。

DSC_8579のコピー.jpg 1984年に台湾・台南で生まれた張惠笙(チャン・フゥイ・シェン/アリス・チャン)は、サウンド・アートの勉強のためにオーストラリア・メルボルンに留学した際に、言語の通じない環境のなかで持つ声のコミュニカティヴな直接性を実感し、それを一つの契機としてヴォイス・パフォーマンスを始めるようになったという(4)。だが圧倒的な声量と多彩な発声法によって聴衆を魅了する彼女の声は、あらかじめ決められた技法を修得するのではなく、たとえば周囲の音を次々に模倣していくといったふうに、あくまでも独学でその可能性を切り開きながら洗練させていったそうだ。音程がはっきりと聴き取れるように声を楽音へと収斂させていく西洋的な声楽の技法からは想像の及ばない響き。それは彼女が多大なる影響を受けたことを公言しているスペインの作曲家/パフォーマーのファティマ・ミランダが、古今東西のあらゆるテクニックを駆使した歌唱法を聴かせるのに比して、むしろサウンドとしての声のあらゆる側面を照射することによる超絶性を聴かせてくれる。もしも彼女の声がコントラバスの弓奏やアルト・サックスのフリーキー・トーン、あるいは浜辺を飛び交う海猫や夕暮れを知らせる晩蟬を想起させるのだとしたら、それは巧みな音声模写が披露されているからではなく、ほとんど即物的に響く彼女の声そのものが、言語の伝達手段としての役割を脱ぎ去り、聴き手の個別的な記憶を喚起していくからだろう。

 あまりにもユニークな張のヴォイス・パフォーマンスは、しかしながら非意味的な声の物質性を聴かせるということにはとどまらない。それは同時に触覚的な繊細さをもって外界を知覚するための手段にもなっているのである。あたかも超音波を発して反響定位をおこなう聴覚的動物のように、声を周囲に投げかけることによって、彼女は演奏会場の物体的な空間特性をリサーチしていく。ステージが用意されていたとしても多くの場合は持ち場を離れて歩き回り、声を発してはその響きの変化を聴き取りながら彷徨い続けていく。声は空間を飛び回り、壁に、天井に、あるいは様々なオブジェクトに接触し、そして彼女の元へ、さらにはわたしたちの耳元へと届けられる。その声はもはや彼女のものではない。何かのメッセージを届けるための媒体ですらない。もしも届けるものがあるとしたら、こうした状況それ自体を共有することに他ならないだろう。彼女にとって声とは「いま・ここ」を創出する「呼びかけ」であるとともに、創出された「いま・ここ」からの「呼びかけ」でもあるのだ。それはマイクを用いたパフォーマンスでも変わらない。声を発しながらマイクに近づいたり離れたり、ゆっくりと横切ったり、あるいは札幌芸術の森で見せたように、コンタクトマイクを取り付けた板の上に水が入ったガラスの器を置き、そこに顔を突っ伏して声を出す。ここではマイクは単なる集音器でも拡声器でもなく、その空間的な距離そのものをデザインすることによって、声による「呼びかけ」に変化をもたらすための共演相手になっているのだ。

P5740032のコピー.jpg 同じように声を用いたパフォーマンスをおこなっていても、張と好対照をなす取り組みを見せるのがヴァイオリン奏者/ヴォイス・パフォーマーのC・スペンサー・イェーである(5)。1975年に台湾・台北で生まれたイェーは、幼少期にアメリカへと渡り、10代半ばからは主にオハイオ州・シンシナティで過ごしながら音楽活動を始めていった。高校時代に出会ったカセットMTRを自らの活動の一つの原点に据えている彼は、大学では実験映画を学ぶなど「記録と編集」に対する興味を深化させていく。彼のソロ・ユニットであり、アンビエント/ドローンなミュジーク・コンクレートを手がけるバーニング・スター・コアは、そうした興味を音楽として結実させた成果の一端だろう。現在はニューヨーク・ブルックリンに拠点を移し、同地の前衛ジャズ・シーンと関わりながら、騒音発生器と化したヴァイオリンを自在に操ることで数々のセッションをこなしてもいる。他方では2015年のアルバム『Solo Voice I-X』で全面的に展開されているように、独自の声の使用法によるパフォーマンスもおこない続けてきた。彼が挙げる学生時代に出会ったもう一つの原体験がいわゆるジャパノイズだ。マゾンナや山塚アイといった特異な声の使い手に魅了された彼は、自らも声を用いたオリジナルな可能性を試行錯誤していったという。「記録と編集」という関心領域が影響しているのだろう、その声の使用法は素材と音響メディアの方へと眼差しが向けられている。

 舌や歯、口蓋や口唇、そのほか可能なあらゆる口腔内外の器官を用いて、エレクトロニクス・ノイズを思わせる苛烈な音を口から発し、それらをマイクで拾ってはリアルタイムで加工と変調を施しながら反復させていく。イェーの声もまた非意味的な即物性を湛えている。素材となっている声でさえ声ならぬ響きであるにもかかわらず、さらに原型をとどめることなくサンプリング/コラージュしていく試みは、しかしながらあくまでも、声でなければ生み出せない微妙な揺らぎを伴うサウンドになっている。おそらくここでは素材の選択が演奏の要になっているのだろう。それは彼がヴァイオリンを奏するときには声を発しないこと、反対にヴォイス・パフォーマンスをおこなう際には決してヴァイオリンに手を出さないことにもよく表れている。そしてマイクの直ぐ近くで激しく口元を左右に振ることで強烈な打撃音を生み出していく彼の姿は、あたかも拡張された口腔を操っているかのようだ。張が空間の一つとしてマイクを用いながら、声帯の奥深くから会場の隅々までを音楽的な場へと変容させていたのだとすれば、イェーは第二の口腔として身体化されたマイクを駆使しつつ、口元で造形した音響を記録/編集することによって新たな音楽世界を創出する。台湾からの移民としてアメリカで過ごしてきたイェーにとって、そのローカリズムを一箇所に求めることなどできないが、少なくとも再構築されていく声の「呼びかけ」からは、彼の音楽の根拠となるような「現地」が立ち現れている。

(1) 北里義之「声の論 響く声、感じられる〈声〉」(『音の力』DeMusik Inter編、インパクト出版会、1996年)。
(2) 昼間賢『ローカル・ミュージック』(インスクリプト、2005年)69頁。
(3) 川田順造『聲』(筑摩書房、1988年)5頁。
(4) 以下では次のインタビュー、および直接交わした対話を適宜参照している。「張惠笙(アリス・チャン) インタビュー」http://asianmusic-network.com/archive/2017/11/post-22.html
(5) 以下では次のインタビュー、および直接交わした対話を適宜参照している。「C・スペンサー・イェ インタビュー」http://asianmusic-network.com/archive/2017/01/c.html

幕間――自由な即興演奏はいかにして可能か

 ところで2015年から開催されてきたAMFでは、その趣旨の一つに「多様なバックグラウンドを持ったアーティストたちが共に新たな音楽の可能性を追求できるようなコラボレーション・モデルの提示」が掲げられていたのだった(1)。それは具体的にどのようなモデルとして提示されたのだろうか。たとえばAMFはライヴハウスだけでなく美術館や小学校など様々な会場を使用してきた。加えてその形式も3〜4人の小編成であったり、グラデーションを描くように参加者を変えていったり、あるいはミュージシャンが円形に並んで中心を作らない布陣を組んだり、会場に点在してときによっては歩き回ったりと、いくつもの共演方法が取られていた。いわばその場所にしかない複数の協働作業のあり方が提示されていたのだが、とりわけそれらに共通して見られるのが、背景を異にする出演者たちが即興演奏によってその場で音楽を成り立たせるという方法論だった(2)。

 なぜ即興なのか。一つの答えとしては特権的な中心を作らない共演の仕方を目指していたことが理由に挙げられる。作曲作品の演奏がその作曲家――必ずしも現実の作曲家ではなくとも――を特権的な中心へと押し上げるのに対して、即興演奏ではあくまでも演奏家が主役である。そこでは一人一人の出演者たちが複数の中心を担うことになる(3)。ならばそれはどのような即興だったのか。即興演奏にも様々なやり方があり、特定のジャンルに則った演奏ではそのジャンルが中心になるため、異なる背景を有する演奏家たちが対等な関係性を取り結ぶことはできない。対等であるためにはこうしたジャンルの正統性に奉仕するのではなく、あくまでも自由な即興演奏がおこなわれなければならない。従来そこには各演奏家の自発的な意志、つまり演奏への能動的な参与が必要だとされてきた。

 だが果たして自由な即興演奏は能動的な行為たり得るのだろうか。たしかに作曲作品の演奏が、作曲家によって決められた音を出すという受動的な行為であるのに比して、即興演奏では演奏家が自ら音を決めて発することができるという意味で能動的である。だが作曲行為それ自体と比べてみるとどうだろう。作曲は音を能動的に操作する。譜面に記された音はすべて意味があり、作曲家の意志によって配置されている(4)。それに対して即興演奏はしばしば霊感や直観が引き合いに出されるように、自らの意志を超えた何ものかに憑依されながら音を発していくことがある(5)。演奏する環境や演奏者のコンディションなど様々な要因があるものの、そこにはある種の受動性が仄見えている。ならば自由に即興演奏をおこなうためにはこうした受動性を脱する強い意志があればよいのだろうか。

 ここで少し補助線を引いてみよう。哲学者の國分功一郎は『中動態の世界』のなかで動詞の態の歴史を紐解きながら次のように述べている(6)。一般的に動詞には「能動態/受動態」という対立があるとされているものの、実はこれは比較的新しく現れた区分けに過ぎず、それ以前は「能動態/中動態」という対立が支配的であった。「中動態」とは能動と受動の中間のことではない。言語学者エミール・バンヴェニストの定義によればこうだ。「能動では、動詞は主語から出発して、主語の外で完遂する過程を指し示している。これに対立する態である中動では、動詞は主語がその座となるような過程を表している。つまり主語は過程の内部にある」(7) 。すなわち「するかされるか」が問題になるのではなく、「主語が過程の外にあるか内にあるかが問題になる」(8)。これは作曲(およびその演奏)と即興演奏の対立に一つの解決をもたらすだろう。すなわち作曲(およびその演奏)とは組織化されるべき音が主語=行為者の外で作品として完遂する行為であるのに対して、即興演奏とは音が主語=行為者の過程の内部において生きながら組織化されていく行為なのである。つまり作曲と即興とは同じ行為の異なる態の問題なのだ。だからそこでは「するかされるか」という意志の有無によって自由の度合いを測ることはできない。國分はバールーフ・デ・スピノザの「自己の本性の必然性に基づいて行為する者は自由である」という定義を引用しながら、自由とは能動的な「自由意志」のことではなく、「能動態/中動態」というパースペクティヴによってよりよくあらわされるような、「自らを貫く必然的な法則を認識すること」だと結論づけている(9)。

 ならば自発性を根拠に追い求められてきた即興演奏における「自由」はあらためて問い直されなければならないだろう。かつて自由な即興演奏をおこなう者たちのあいだに「非イディオム的即興」という言葉が飛び交った。それは演奏家の自由な意志を確保するために、言語に準えられた演奏の慣用句/語法としての「イディオム」という制約をすべて取り外そうとする試みだった(10)。そして背景の異なる演奏家たちはそれぞれの「イディオム」を無化することで対等な共演を可能にしようとした。だが記憶と歴史を積み重ねることによって「非イディオム的即興」という名の新たな語法が生み出されていったことからもわかるように、ある意味でそれは一つの言語を共有することによる協働作業の実現でもあった。その後このように慣用句/語法を不可避的に身に纏わざるを得ないことから発想を転換し、あらゆる「イディオム」を前提とするポストモダニスティックな試みがおこなわれ、それは「汎イディオム的即興」とも呼ばれた(11)。すべての語法に対等な権利が与えられるため、異なる「イディオム」が異なるままで共演を可能にするという方法は、しかしながらどのような「イディオム」でも他の「イディオム」と繋がり合ってしまうという状態に陥る。そこではもはや特定の語法に意味を見出すことも演奏を価値づけることもできなくなる。さらにその後、音楽を言語に喩えるという問題系から離れ、聴取を前景化するいわゆる「音響的即興」がおこなわれた。だがそれは他方ではモダニズムの再興であり、「非イディオム的即興」を徹底的に推し進めた末にある、ゼロ地点あるいは完全なランダムネスという身動きの取れない二つの極点にまで到達することになった(12)。

 ここでさらに別の補助線を引いてみよう。哲学者の千葉雅也は『勉強の哲学』のなかで「深い勉強」を説明するために言語を分析しながら次のように述べている(13)。「自由になる、つまり、環境の外部=可能性の空間を開くには、(......)言葉を言葉として、不透明なものとして意識する(......)必要がある」(14)。しかし言葉を「不透明なものとして意識する」ことは、ゆくゆくはあらゆる「環境=他者関係」を言葉から取り外し、現実それ自体に触れようとする不可能な試みに陥らざるを得ない。そのため「言語の環境依存性」つまり「環境の複数性=言語の複数性」をあらためて認めなければならない。しかしそれだけであればこんどはあらゆる「言語の環境」が際限なく繋がり合ってしまうという接続過剰な状態に陥る。言葉と言葉がどのようにも繋がり合うことができてしまえば、「言葉は、区別されたひとつの意味をもつことができなくなる」(15)。「環境」を「イディオム」に、「言語」を「演奏」に読み替えてみるならば、ここまでは「非イディオム的即興」から「汎イディオム的即興」への流れと相似形をなしている。この隘路をモダニズムへの回帰ではなくしてどのように切り抜けることができるのか。そこで千葉は「偶然的で強度的な出会いの痕跡」としての「享楽的こだわり」を根拠に「環境の複数性」から切断の契機を見出していく。ただしその「こだわり」は絶対的に固定されたものではなく、あくまでも「仮固定」された足場でなければならない。先に「能動態/中動態」というパースペクティヴで見た「自らを貫く必然的な法則」を、出来事の偶然性のうえに成り立つものとして捉え返してみるならば(16)、変容し得るものとしての、だが逃れ難く貫かれているものとしての「自己の本性の必然性」を認識し、それによって生まれた偶然的な「こだわり」を根拠に有限な「環境」のあいだを行き交うことが、自由を獲得するための道筋になる。

 すなわちこういうことだ。まずは自らが寄って立つ「イディオム」に対して自覚的になること。そしてそれを取り外してみること。しかしすべて取り外すのではなく、必ずなんらかの「イディオム」に依存せざるを得ないことをも自覚すること。既知の「イディオム」の外部に複数の「イディオム」があることへと想いを馳せること。だがあらゆる「イディオム」と繋がり合うのでもなく、「自らを貫く必然的な法則」を認識し、個別具体的に生まれた「こだわり」を根拠に、限られた「イディオム」と「イディオム」のあいだを探索すること。肝要なのは「イディオム」から身を引き剥がしつつもすべて取り去るのではなく、他の「イディオム」との「あいだ」へと身を乗り出すことだ。いわば「間イディオム的即興(Inter-Idiomatic Improvisation)」とでもいうべきものを目指すこと。

 背景の異なる者同士が一堂に会して共に演奏をおこなうAMFでは、それぞれの出演者たちがローカルな既成のジャンルにあくまでも依拠しつつ、それに対する侵犯/逸脱をおこなうという「実験的」な試みであることが、事後的に成立が確認されるような共演を可能にしていた。あらゆる「イディオム」を排することによるのでも、集約することによるのでもなく、こうした「イディオム」と「イディオム」のあいだをローカルな「実験性」に根差しながら行き交うことによる対等な協働作業の可能性。確立された「意志」による「自由」とはまったく異なった、個別具体的な複数の中心が滲み合うようにして織り成す、まさしく自由な即興演奏の姿がここにはある。それは集団即興の様々な形態を実践するAMFのなかで、その核となって提示されてきた「コラボレーション・モデル」だったと言えるだろう。

(1) 厳密に言えばアジアン・ミュージック・ネットワークが掲げる目標だが、AMFの開催を通してこの目標の実現を模索しているため、AMFの趣旨でもあると受け取って構わないように思う。
(2) アジアン・ミーティングはこの限りではない。たとえば2005年の第一回では杉本拓による作曲作品が演奏されていた。
(3) こうした問題は共演者たちが協働して作曲をおこなうことで解消される。事実、『Asian Meeting Recordings #1』における七尾旅人とスキップ・スキップ・バン・バンの録音のように、楽曲制作そのものが忌避されているわけではない。だがあくまでもライヴ・パフォーマンスとしておこなわれる一夜限りのイベントには、協働して作曲するための時間が設けられていなかった。このように即時的であるという条件のもとに対等な協働作業の可能性を探ることが、即興であることのもう一つの理由として挙げられるだろう。
(4) 音の配置を外部のランダムなシステムに任せる偶然性の音楽や、演奏の細部を演奏者や演奏機材に委ねる不確定性の音楽でさえ、そのように作曲家の意図を排除しようとすることそれ自体が作品における作曲家の意志として残存しているとひとまずは言える。
(5) 言うまでもなく作曲行為も即興演奏と同様に霊感と直観によっておこなわれることがある。だが書かれた譜面は繰り返し推敲することができる。いわば霊感と直観を筆記的に操作することができる。ただしこの後で述べるように作曲行為を「能動的な意志」として捉え切ることができるわけではない。ちなみに先回りして付言しておくと、作曲を含む芸術それ自体を「中動態」として捉える見方もある(森田亜紀『芸術の中動態 受容/制作の基層』萌書房、2013年)。
(6) 國分功一郎『中動態の世界 意志と責任の考古学』(医学書院、2017年)。
(7) 同前書、88頁。
(8) 同前書、同頁。
(9) 同前書、262頁。
(10) ここでは通俗的な意味合いとしての「非イディオム的即興」を扱っている。もともとデレク・ベイリーが「フリー・インプロヴィゼーションの中に多く見られるもの」(『インプロヴィゼーション』工作舎、1981年)として使用した「非イディオム的即興」という言葉はこうした意味合いとはやや異なりをみせている。彼は「あらゆる即興演奏は、それが伝統的なものであれ、新しいものであれ、既知のものとの関係性のなかから生まれる」(同前書)と述べていた。
(11) 清水俊彦「即興の哲学に向けて」(『ジャズ転生』晶文社、1987年)。
(12) 「佐々木敦即興論 さらなる即興の解体」(『プログレッシヴ・ジャズ』、Pヴァイン、2014年)。
(13) 千葉雅也『勉強の哲学 来たるべきバカのために』(文藝春秋、2017年)。
(14) 同前書、56頁。
(15) 同前書、99頁。
(16) 國分によれば「自己の本性」とは不変不動のものではなく、外部の刺激によって自らが変状(実体が一定の性質や形態を帯びること)するときの「変状する能力」のことであり、さらにその能力それ自体も変化し得るものとして定義されている。

4:電子音に宿る身体――ムジカ・テト、カリフ8

 「声楽と器楽の本源的な観念は、まったく異なっている」と書いたのは民族音楽学者のクルト・ザックスだった(1)。たしかに身体の奥底から発される声を用いることと、拡張された身体としての楽器を用いることは、異なる質のもとにある音楽を生み出していく。ザックスは後者を「手の敏活な運動」が為す技だと言い、それを引用したデレク・ベイリーは楽器を「衝動をつくり出すと同時にその受容器でもある」ものとして、演奏家にとって最も重要な音楽の源泉だと主張した(2)。ところで電子音楽にはこのどちらにも位置づけられない特徴がある。それは人間の身体を出発点に据えるのではなく、作曲家の脳内を「直接的」に具現化する試みであり、いわば脳神経系の延長にあると言うことができそうだ。

 電子音楽は演奏家を介することなく音源として完結することができる。そこには本来的に身体との断絶がある。だとしたらライヴという生身の肉体が晒された空間で電子音楽を奏でることにはどのような意味を見出せるのだろうか。先駆者の一人アンリ・プスールは、合衆国におけるジョン・ケージ以来のライヴ・エレクトロニクスの手法の重要性について、「ある種の合理性への反発、そして実践的知覚的現実とだんだん離れていく演算・思弁・抽象的手段への過剰な信頼への反発」と指摘した(3)。電子音楽は有用だが万能ではない。たとえば調達される素材の肌理、あるいはそれを操作する動きには、ライヴ空間ならではの身体性を宿すことができる。脳神経系は「手の敏活な運動」によって賦活されることで新たな世界を開示するのである。

IMG_1700のコピー.JPG ミャンマーの旧首都ヤンゴンで1992年に生まれ、現在も同地を拠点に活動をおこなっているムジカ・テトは、独自のライヴ・エレクトロニクスを披露するコントラバス奏者/電子音響作家である(4)。オーストリアから来訪していたベース教師との出会いをきっかけに10代半ばからコントラバスを弾き始めたという彼は、ヤンゴンに勃興したばかりのジャズ・シーンと関わりを持ちながらも高校卒業後にはシンガポールへと留学。録音と音響機材に対する関心を掘り下げるためだったものの、結果的にはそれが「実験的」な音楽へと足を踏み入れる契機になる。彼はノイズ・ユニットのブラック・ゼニスとしても知られるブライアン・オライリーのもとで研鑽を積みながら、音のテクスチュアに重心を置いた音楽のあり方を探求し、ミュジーク・コンクレートへと連なる電子音楽の制作に取り組んでいった。2015年に帰国し、その2年後には「ノイズ・イン・ヤンゴン」(5)というコミュニティを立ち上げるなど、ノイズ・ミュージックがまだ根付いていないヤンゴンではシーンを牽引する存在でもある。そしてそのコミュニティがライヴ・イベントの企画から始まっていることからも窺えるように、彼は電子音楽を音源として固定されたものだけではなく、生きたパフォーマンスとしても捉え積極的にその可能性を探ってきた。AMFで見せたように、コントラバスで演奏した音を拾い、ラップトップ・コンピュータに入力して加工・変調を施すことによって、ミニマル/ドローンな音を生成していくその音楽は、何層にも重ねられた油彩画のような厚みを湛えながら、抽象的な音塊の襞を揺蕩わせていく。

 それは一見すると、必ずしもコントラバスである必然性がない試みにも映るかもしれない。実際に、福岡アジア美術館におけるライヴでは、コンタクトマイクを用いて複数の金属製の皿が擦れたりぶつかったりする音を拾っていくなど、コントラバスだけを素材にしているわけではなかった。だがエレクトロニクス処理を施す前の彼の演奏を耳にするならば、まずもってアコースティックなコントラバスの響きの芳醇さを奏でているということがわかる。多くの場合アルコ奏法を駆使しながら、巨大生物の咽び泣く咆哮のようなサウンドを生み出す彼は、弓を弦に当てる位置、その角度と速度を注意深く見極めて、時には棒のようなものを擦りつけたりプリパレーションを施したりもすることによって、あたかも電子音のような即物的な響きを紡ぎ出していく。そして共演相手をじっと見据えながらリアルタイムでの状況変化に応じて加工・変調していくその響きにも、演奏する身体が音の肌理として分子的に刻み込まれているのである。テトによると、キャリアの出発点であり長年歩んできた「旅路」でもあるコントラバスは、音楽活動において欠かすことのできない前提でもあるようだ。いわば彼の音楽の源泉として、衝動を生み出しそれを受け入れる器としてコントラバスはある。録音と音響機材への興味が「実験性」への道を用意した彼にとって、「受容器」としてのコントラバスから加工・変調を経て表出されていく身体性は、もう一つの「旅路」の途上に発揮されている音楽的個性だと言えるのだろう。

DSC_9574のコピー.jpg テトが奏でるライヴ・エレクトロニクスと比べると、素材よりもむしろその操作に身体性を宿していくのがカリフ8の演奏である(6)。1977年にフィリピン・マニラで生まれたカリフ8は、ヒップホップ/サンプリングを自らの活動の主軸に据えながら、音楽活動にとどまることなく、ヴィデオ・アート、ペインティング、サウンド・インスタレーションなど複数の表現方法に精力的に取り組んできた。ギャングスタ・ラップ全盛のアメリカ西海岸で10代前半を過ごしたという彼は、しかしながら渡米前のマニラにこそ自身のヒップホップの原体験があったと強調する。80年代当時すでにマニラでは盛んにヒップホップが聴かれており、彼は近所に住んでいたDJの家から洩れ聴こえてくるプレイを耳にして魅了されていったそうだ。その体験はジャンルというよりもすでに経験としてヒップホップ的でもある。音楽を文脈から引き剥がし、音源としてフラットに捉えるヒップホップのサンプリング文化では、ポップスの真横にクラシックが、ジャズが、ノイズ・ミュージックが並べられていく。他方では彼が「物語の語り部」と形容するように、あるアーティストの音楽をそれまでの環境とは異なる場所に置き直すことは、まったく別の文脈で聴かれてきた過去の作品を、新たな角度から照らし出す契機にもなる。様々な音響素材を集めては独自の手法を用いて繋ぎ合わせていくカリフ8は、マニラに帰国してから長年にわたってアンダーグラウンド・シーンを牽引し、まさしく「物語の語り部」としての役割を担ってきた。そしてこうした視座は彼の演奏においてその具体的な基層をなしているのである。

 AMFのライヴで見ることができたカリフ8の演奏法は基本的に三つの要素に分けることができる。一つはMPCの使用であり、たとえばエルヴィン・ジョーンズのドラム・プレイをサンプリングし、その断片を自らの身体感覚で再構築することによって、エルヴィンのサウンドによる、しかしエルヴィンが成し得なかったドラミングを創出する。二つめはカセット・テープのコラージュである。主にカリフ8自身が過去にリリースしたカセットを用いて、それを低速で再生しながらエフェクトをかけ、徐々に速度を上げていくことによってある種の高揚感をもたらしていく。三つめがコンタクトマイクを用いたリアルタイムでのサンプリングとその音を素材にした演奏だ。これら三つの要素を組み合わせて演奏するわけだが、そこに通底しているものこそ彼にとっての「音楽の源泉」としてのサンプリングという手法に他ならない。サンプリングされた響きはエレクトロニクスによって異化されるとともに、身体的な感覚のもとに組織化されていく。テトが分子的に身体が刻み込まれたサウンドの緩慢な変化を聴かせるのに対して、カリフ8は自らの身体を即時的な操作として関わらせることによって、時にはグルーヴィーなリズムを、時には陶酔的なハーモニーを生み出す躍動的な変化を聴かせてくれるのである。身体に根差しておこなわれるこうした解体/再構築は、たとえあらゆる音楽がすでに鳴らされたものだとしても、そのことがそのまま枷になるわけではないという、「実践的知覚的現実」の深みへとわたしたちを導いてくれるのだ。

(1) クルト・ザックス『音楽の源泉 民族音楽学的考察』(ヤープ・クンスト編、福田昌作訳、音楽之友社、1970年)144頁。
(2) デレク・ベイリー『インプロヴィゼーション 即興演奏の彼方へ』(竹田賢一+木幡和枝+斉藤栄一訳、工作舎、1981年)207頁。
(3) ジャン=イヴ・ボスール『現代音楽を読み解く88のキーワード 12音技法からミクスト作品まで』(栗原詩子訳、音楽之友社、2008年)53頁。
(4) 以下では次のインタビュー、および直接交わした対話を適宜参照している。「ムジカ・テト インタビュー」http://asianmusic-network.com/archive/2017/12/post-24.html
(5) http://www.noiseinyangon.com。ちなみにテトは2016年にリリースされた東南アジア各地のノイズ・ミュージックを集めたコンピレーション・アルバム『Not Your World Music: Noise in South East Asia』にも「Noise in Yangon」というタイトルの楽曲を寄せている。
(6) 以下では次のインタビュー、および直接交わした対話を適宜参照している。「カリフ8 インタビュー」http://asianmusic-network.com/archive/2017/12/post-26.html

5:関係性を産出する装置――アーノント・ノンヤオ

 電子音楽の成果が結実した1970年の大阪万博は、同時にインターメディアと呼ばれる試みの一つの頂点を成すイベントでもあった(1)。音楽や美術、映画、演劇、文学など異なるメディア(媒体)のあいだに生まれた表現/作品を指す「インターメディア」は、複数のメディアの並列である「ミクストメディア」とは区別されるものとして、フルクサスの活動家であり作曲家でもあるディック・ヒギンズによって60年代に提起された言葉である。だがそれは時代の芸術運動として片づけられるものではない。「インターメディアという語は規範的ではない。つまり、この語はそれ自体を称揚するものではない」(2)。あくまでも「そう呼ばなければ不透明で不可解に見える作品への入り口を用意するもの」(3)として提起されたのである。

 たとえば世紀の転換期に人口に膾炙していったサウンド・アートという用語がある。ジャンルを指す言葉として用いられることもあるが、それをヒギンズ流に「入り口」として解釈し直してみるとどうだろう。かつて音楽学者の中川真はサウンド・アートを「アートの外側にあることによって成り立っている」と同時に「音楽の外に脱出しながら、それでも「音」で何かを表現する」作業だと言い表した(4)。サウンド・アートという語はいまだ言葉の与えられていない場所としての「あいだ」へと向けられた用語でもあるのだ。「音楽と美術のあいだ」(5)について思考することは、ジャンルの画定ではなく、サウンド・アートのこうした側面をあらためて照射することによって、この語が画定してきた境界線を引き直す企てでなければならない。

P5720889のコピー.jpg 1979年にタイ・バンコクで生まれ、現在は同国チェンマイを拠点に活動をおこなっているアーノント・ノンヤオの実践は、まさしくこうした「あいだ」にある試みだと言うことができるだろう(6)。国立チェンマイ大学で絵画について学んだ経歴を持ちながらも、彼はこれまでに映像作品やインスタレーションなど画業にとどまらない取り組みをみせてきた。主にテン年代以降に手掛けてきた作品を振り返るならば、それらは次のような特徴のもとにまとめられる。すなわち作品が人々の交流を促す媒体となっているということ、そしてどの作品にも音が関係しているということである。たとえばテニスボールを投げることで即興的な音楽を生成する「Change Position (Sound Throvies)」、ペンシル型のカセットデッキのヘッド部分で磁気テープを読み取っていく「Mix Tape as ?」シリーズ、あるいは動く音楽機械の「Mobile Sound」とその発展形とも言えるいわゆる「ノイズ自転車」など、どれも音を介して観客と作品と作家にインタラクティブな関係性を生み出していくものになっている。それらはリレーショナル・アートと呼べる試みかもしれないが、わざわざこの言葉を持ち出さなくとも、遥か以前から音を介した営みは関係性を創出するプロセスとして人々のもとにあった。ノンヤオは若い時分から周囲の人間が喋ったり何かをしていたりする音に対して耳を傾けることに興味を抱いていたという。「どんな音が演奏されているかよりも、どのように人々が一緒に合奏できるかということに興味がある」と語る彼にとって、音を取り巻く状況に向けられた関心こそがあり続けてきたのだ。

 ノンヤオはそのインスピレーションの源泉としてカンボジア・プノンペンの音響発明家クゥワイ・ルン(Khvay Loeung)を挙げている。音楽家や美術家ではなく発明家であるところがユニークだが、それはノンヤオ自身もまたアーティストというよりも発明家的な態度のもとに作品制作を続けてきたことを示唆しているように思う。彼は自作装置を発明し、それを用いて音の結果を観察していく、ライヴ・インスタレーションとも呼ぶべきパフォーマンスをおこなっている。現在こうした試みはノンヤオに限らず他にも見られるものだ。「ACCIDENT」をテーマに2015年に開催されたバンコクの実験音楽祭『DRIFT』で観て以来、ノンヤオが注目し続けてきている梅田哲也をはじめとして、堀尾寛太や大城真らの試みがそうである。こうした同時代的傾向はデイヴィッド・トゥープによって「フェノメノロジスト(現象学者)」と呼称されたように(7)、演奏によって抽象的な音楽を実現するというよりも、具体的な現象そのものに焦点を当てていく傾向なのだとひとまずはまとめることができるだろう。だがそれはたとえば90年代にフェノメナ・アートと呼ばれた美術的動向とは似て非なるもののようにも思われる。フェノメナ・アートがあくまでも同時代に興隆した複雑系科学の影響とともにあったとするならば、「フェノメノロジスト」のそれはもっと素朴かつプリミティヴな音の愉しみに溢れているからだ。原理を説明してしまえばなんとも単純なものなのかもしれないが、生み出される音の環境とそこから触発される思弁には、音楽に対するこれまでの人間中心主義的な態度をあらためて考え直す契機がある。

DSC_8700のコピー.JPG アーノント・ノンヤオがAMFで見せてくれた自作装置を用いたパフォーマンスについて具体的に触れておきたい。回転する小型ターンテーブルの上に円盤状のものを乗せ、そこに疎らに突起を設けている。トーンアームのようなものが円盤を擦ってレコードのヒスノイズを思わせる音を立てるとともに、突起にぶつかって打撃音を響かせもするのだが、それらの音にディレイ・エフェクターをかけることによって、まるで異国情緒漂う弦楽器のような細かく揺らめく振動音を生み出していく。他方でサイレンのような持続音も扱い、微かに震わせながら響かせたり徐々に音高を上げていくことで緊張感を煽ったりもする。そしてこうしたサウンドとともにリアルタイムで映像の操作をおこなっていく。自作装置にはカメラが取り付けられていて、その映像がスクリーンに投射されるのである。多くの場合マイクスタンドから垂らされたカメラが真下にある電球を映す。カメラは直接手によって細かく揺さぶられ、その振動がサイケデリックな光となって映される。あるいは無数の極彩色の小型ライトが取り付けられた器を映し、同じくカメラを細かく揺さぶることによって振動現象そのものを思わせる光を生み出していく。回転するターンテーブルを映すこともある。さらに会場を映しながら映像を歪ませていくこともある。こうした映像と音響の組み合わせはエクスパンデッド・シネマとも呼べるパフォーマンスだが、決して映像の方に重心が置かれているわけではなく、まさしく映像と音響の「あいだ」にその要点はある。

 興味深いことにこれらの映像と音響はそれぞれ別の原理によって駆動しているのである。たとえばそれは音量や音高が上がることによって光の度合いが変わるのではなく、カメラを揺さぶることによって音にノイズが増えていくわけでもない。あくまでも別々に操作をしながらノンヤオはそれらをリアルタイムに同期させていく。なぜ映像と音響を直接同期させないのか。彼によれば同期させてしまえば自分自身が装置に介入する意味がないからだそうだ。つまり映像と音響の関係性の偏差としてノンヤオの身体はある。そして音は相補的な関係性を取り結ぶ映像によって持続音にさえ時間の楔が打ち込まれていき、変化に富んだ音楽的時間としてわたしたちに聴かれるようになる。逆もまたしかり、カラフルな色彩や明滅する光が印象的な映像は、音によって一つの物語として統合されながらわたしたちに見られるようになる。ただし視覚と聴覚を繋ぐノンヤオの実践は、音楽と美術が融合することによって生み出された新たなジャンルにあるのではなく、あくまでもそれぞれのジャンルの外部にありながら「あいだ」を探索する経験として披露されている。だからそれはたとえソロ・パフォーマンスであったとしても、「どのように人々が一緒に合奏できるかということに興味がある」と述べた彼の関心と無関係ではない。いわばそこで彼はコミュニケーションの「場」となって映像と音響を関係させているのだ。いずれまったく異なる装置の発明へと向かうのかもしれない――だがそこでもおそらく音を介した関係性の束として、彼は表現/作品を「場」の産出へと捧げることだろう。

(1) 鈴木治行「『インターメディア』の時代とその終焉をめぐって」(『日本の電子音楽(増補改訂版)』川崎弘二編著、愛育社、2009年)。
(2) ディック・ヒギンズ『インターメディアの詩学』(岩佐鉄男・庄野泰子・長木誠司・白石美雪訳、国書刊行会、1988年)53頁。
(3) 同前書、56〜57頁。
(4) 中川真『サウンドアートのトポス アートマネジメントの記録から』(昭和堂、2007年)2頁。
(5) 大友良英『音楽と美術のあいだ』(フィルムアート社、2017年)。
(6) 以下では次のインタビュー、および直接交わした対話を適宜参照している。「アーノント・ノンヤオ インタビュー」http://asianmusic-network.com/archive/2017/01/post-15.html
(7) David Toop "Can SOUND", The Wire 400, June 2017. デイヴィッド・トゥープは他に毛利悠子、赤間涼子、すずえり、川口貴大、中島吏英、Pierre Berthetの名前を挙げている。

6:アジアの音、あるいは特殊具体的なる響きの複数性

 これまで見てきたようにAMFの参加者たちはそれぞれに異なる独自の魅力を持っている。にもかかわらず多くの人々は次のような問いにも関心を寄せてきた。すなわち音楽の「アジア性」とは何か。たとえば2016年のAMF出演者でもあるヨン・ヤンセンは、インタビューのなかで西洋のミュージシャンと東洋のミュージシャンの感覚的な差異について言及していた(1)。あるいは同年のAMFを評した若尾裕は、ライヴに接して「アジア的世界観が聴こえてくるようにさえ思えた」と述べていた(2)。さらにAMFから「来るべきアジア像のイメージ」が浮かび上がってくると書いた(3)ライターの大石始は、2017年2月に渋谷アップリンクでおこなわれた報告会の中で、明確にすることはできないもののAMFにはどこかアジア的なものがあるように感じた、とも語っていた。彼らが感じ取り、しかし最終的には言語化することに途絶してきた「アジア性」とは、一体何であったのだろうか。

 あらかじめ一つの消極的な答えを提示しておくならば、AMFを総体として捉えたときに見出される、あるいは出演者それぞれに共通する「アジア性」というものは、言語化=領土化すべき/し得るものではなく、緩やかに共有されている何かとして、そうしたものがあるような気がする、といった程度にとどめておくのが正しいのだろう。わたしたちがAMFから聴き取った響きは顔の無い「アジア性」の表象ではなく、まずもって個々のミュージシャンによる具体的実践の数々だったのであるから。だがあえて危険を冒しつつ、より踏み込んでアジア的なるものについて考えてみるならば、どうか。ここに一つの手がかりがある。アジア全域の民族音楽を一望するという野心的な試み『アジア音楽の世界』を著した音楽学者の櫻井哲男は、「音楽におけるアジア的な音」とは「『噪音』と、通奏持続音すなわちドローンである」と指摘しながら(4)、アジアの音楽の特徴について次のように続けていた。

 こうした噪音文化、ドローン文化は、いったい何を意味しているのか。/それは〈音の雑居性〉であろう。性質の異なる複数の音が、同時に鳴らされる。それは音の単調さを免れるための工夫であり、豊かな音空間を作り出すための演出でもある。ここには、異質なものの同居を許し、それを受け入れるおおらかな感性がある。(櫻井哲男『アジア音楽の世界』)(5)

 この文章はわたしたちに衝撃を与えることだろう。ここにはほとんどAMFを言い表したかのような言葉が書き連ねられているからである。ならばAMFはまさしく「アジアの音」の反映なのか?いや、そうではない。この文章はAMFだけでなく、異なる背景を持つ演奏家たちが対等な関係性を取り結ぼうと試みてきた、フリー・ミュージックの系譜を想起させるものでもある。いずれにしてもわたしたちは不用意に「アジア性」なるものの存在を前提することは回避しなければならない。

 そもそも「アジア」とは何であり、どのような概念として考えることができるのか。かつて中国文学者の竹内好は「アジアを侵略の対象としてとらえるか、それとも侵略に対する抵抗の主体としてとらえるか、この二つの立場がありうる」と述べたことがあった(6)。侵略の対象として「アジア」を捉える立場は、1885年に福沢諭吉が書いたとされる『時事新報』の社説の中で唱えられたいわゆる脱亜論を導く。日本は「アジア」という劣った場所を脱し、優れたヨーロッパ列強の一員とならなければならないという主張だ。これがそのまま反転したのが、「大東亜共栄圏」の構想などに典型的に見られる、西洋を凌駕する「アジア」の連帯を目指したいわゆる興亜論である。抵抗の主体として「アジア」を捉える立場もここに含まれる。だが脱亜論にせよ興亜論にせよ、どちらも無自覚に「アジア」なるものの実体を前提にしてはいないだろうか。

 「アジア」の語源的な由来に関しては一般に、古代メソポタミアのアッシリア語による「日の出るところ」という意味の言葉「アス(Asu)」が元になっており、そして反対に「日の没するところ」を意味する「エレブ(Ereb)」が「ヨーロッパ」という言葉の元になったと言われている。それらが古代ギリシア時代にヘロドトスの『歴史』において対立概念として使用された。現在のトルコ沿岸部の小領域を指す言葉でしかなかった「アジア」という概念は、「ヨーロッパ」による東への進出とともに「極東」にまで拡大されていく。ユーラシア大陸――「ヨーロッパ」と「アジア」を組み合わせた造語で20世紀初頭にイギリスの地理学者ハルフォード・マッキンダーによって広められたとされる言葉――の西域に位置するギリシアを起点に東西を二分し、広大な東側を一緒くたにした「アジア」という言葉がさす領域は、文化的には言うまでもなく、地理的に言ってもなんらまとまりを成すものではない。それは地域を名指すというよりは外部を指し示す言葉、西洋ならざるものへと向けられた言葉なのだと言える。

 すなわち「アジア」というのはそもそも地域概念として存在しないのだ(7)。19世紀に至って初めて「アジア」に住んでいた多くの人間たちは自らが「アジア人」であるということを突きつけられた(8)。だから「アジアをアジアたらしめているのは、ほとんどアジアという語それしかない」(9)。「アジア」とはあくまでも「ヨーロッパ中心主義的なまなざしの中で生まれた世界の捉え方」(10)でしかないのである。そして再び竹内の言を借りるならば、「アジアとは、ヨーロッパを成立させるために排除されたものの総和、すなわち非ヨーロッパの総和といってもいい」(11)。性急な断定であることを承知の上でこの発言に同意する。

 これまで多くの場所で「アジアの音」として書き連ねられてきた言葉は、本当は、西洋近代音楽から逃れゆく音、そこから逸脱する響き、すなわちローカル・ミュージックの「実験性」のことではなかったろうか。それは「アジア」という言葉が文化的にも地理的にも一つの領土を示すものではなく、西洋の外部に対する眼差しによって押し付けられた言葉であることから導き出される結論である。たとえば人類学者の中沢新一がバルトーク・ベーラの音楽を「西欧世界にけっしてあらわれることのないタイプ」(12)として取り上げ、「異質なものを普遍的なベースの上にとりこんでしまうのではなく、異質なものどうしが、たがいに出会いをくりかえすことのなかから、いままでどこにも存在することのなかった空間をつくりだす」(13)と書いたとき、ほとんど「アジアの音」と同じ言葉が費やされたことは単なる偶然ではなく、むしろこのことを裏付ける実感として読むことができるだろう。「アジア」は存在しない(14)。するとしたらそれは西洋の眼差しに忍び込む「ノイズ」においてある。だからこそ「アジアの音」を語るその語り口は西洋近代主義批判としての「実験的」な音楽へと近接する。そしてAMFは「アジアの音」と「実験性」という表裏一体の両面を兼ね備えた出来事だったと言うことができる。

 ならば「アジアの音」は必然的に複数の響きでなければならない。だがそれは文脈を離れて独り歩きをしてきた「アジアは一つ」という岡倉天心が遺した言葉と対立するものではなく、むしろ天心の思想はこうした複数性を補完することだろう。『東洋の理想』を読めばわかるように、そもそも天心がこの言葉を持ち出した背景には「不二元の思想」があった。彼は東洋と西洋の相克としての開国以来の日本において、「日本人の心を束縛している二つの強大な力」(15)を次のように記していた。「その一つは特殊具体的なるものを通じて流れる普遍的なるものの雄大な幻影にみち溢れたアジアの理想であり、もう一つは、組織立った文化を持ち、分化した知識のことごとくを揃えて武装し、競争力の切先もするどいヨーロッパの科学である」(16)。同様のことがらをより平易に書き表した人物がいる。時は隔てて1962年、ジョン・ケージとその後の音楽世界に決定的な影響を与えた仏教学者・鈴木大拙は、「西洋の人々は、物が二つに分かれてからの世界に腰をすえて、それから物事を考える。東洋は大体これに反して、物のまだ二分しないところから、考えはじめる」(17)と説き諭していた。

 これを西洋と東洋の対立的特徴としてそのまま受け取るのではなく、西洋の特徴とその外部が言い表されたものとして捉え返してみる。つまり「アジアは一つ」という言葉は唯一つの価値観の共有などということとはまったく無関係に、「物が二つに分かれてからの世界」に始まる西洋式の思考法ではない、「わかったような、わからぬもの」(18)から出立する考え方を示していた。そこには主客未分以前の名づけ得ぬ複数性が、二元論的な分化へと還元される手前で息づいている。だから天心に対して「アジアは一つではない」と批判を投げかけることにはあまり意味がない。むしろ現代においてさえ、いやナショナリズムとグローバリズムという顔の無い二層化されたネットワークに覆われている現代においてこそ、「特殊具体的なるものを通じて流れる普遍的なるものの雄大な幻影」としての「不二元性」を、「アジア」からあらためて掴み取らねばならない。それは普遍性/完全性へと向かう「組織立った文化を持ち、分化した知識のことごとくを揃えて武装し、競争力の切先もするどいヨーロッパ」が触知できない部分でもあるのだ。アジア間に交流をもたらすAMFは、なにか完成されたものへと向かうのではなく、すれ違いと失錯行為を繰り返していきながら、結果的に見出される「アジア的」な協働のプロセスにこそ本領があった。わたしたちは断片から広がりゆく世界への配慮を、そして聴こえない響きから立ち現れる音楽のローカリズムへと、意識を向けなければならないだろう。他でもなく天心は次のように書き残していたのだった。

一片の雲、一輪の花の美しさは、それが無意識のうちにひろがり開いていくところにあり、そして各時代の傑作の沈黙の雄弁は、必然的に半真理たらざるを得ないもののいかなる概要よりも、よりよくみずからの物語を語るにちがいない。(岡倉天心『東洋の理想』)(19)

(1) 「ヨン・ヤンセン インタビュー」http://asianmusic-network.com/archive/2017/01/post-14.html
(2) 若尾裕「ノイズ・グローバリゼーションはアジア音楽にとって順風となる」http://asianmusic-network.com/archive/2016/07/asian-meeting-festival-2016-4th-day-in-kobe.html
(3) 大石始「中心の存在しない「いくつものアジア」へ」http://asianmusic-network.com/archive/2015/12/asian-meeting-festival-2015-in-tokyo.html
(4) 櫻井哲男『アジア音楽の世界』(世界思想社、1997年)253頁。
(5) 同前書、255頁。
(6) 竹内好「アジアの中の日本」(『竹内好全集 第五巻』筑摩書房、1981年)176頁。
(7) 脇村孝平「アジアは存在しない」(『「アジア」を考える』、藤原書店編集部編、藤原書店、2015年)28頁。
(8) 岡田英弘「アジアとヨーロッパ」(同前書)19頁。
(9) 杉山正明「『アジア』の語を好む日本」(同前書)32頁。
(10) 張競「「アジア」を観る前にすべきこと」(同前書)34頁。
(11) 竹内好「アジアの中の日本」(『竹内好全集 第五巻』筑摩書房、1981年)177頁。
(12) 中沢新一「東方的」(『東方的』講談社、2012年)41頁。
(13) 同前書、47頁。
(14) 「アジア」は存在しないものの、存在すると仮定することによって得られる様々な効果はあり、それはわたしたちの思考と行動に少なからぬ影響を及ぼしてきた。すなわち「アジア」とは「幽霊」であり、この意味でもAMFは「郵便的」な連帯を具現化する。
(15) 岡倉天心『東洋の理想』(講談社、1986年)180頁。
(16) 同前書、同頁。
(17) 鈴木大拙「東洋思想の不二性」(『東洋的な見方』岩波書店、1997年)166頁。
(18) 同前書、168頁。
(19) 岡倉天心『東洋の理想』(講談社、1986年)24頁。

細田成嗣(ほそだ・なるし)
1989年生まれ。ライター。佐々木敦が主宰する批評家養成ギブス修了後、2013年より執筆活動を開始。『ele-king』『JazzTokyo』『Jazz The New Chapter』『ジャズ批評』『ユリイカ』などに寄稿。主にアヴァンギャルド/エクスペリメンタルと形容される音楽を紹介するほか、日本の同時代的なノイズ/インプロ・シーンを追跡中。