ユエン・チーワイ インタビュー

ユエン・チーワイ

インタビュアー=須川才蔵

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○大友良英との出会い

――チーワイさんのこれまでの活動についてお話ししていただけますか。

 大友さんと最初に会ったときのことから話をした方がいいのかもしれませんね。初めて会ったのは「フライング・サーカス・プロジェクト」という、今でもやっているライヴ・イベントです。大友さんは大友さんで、「アジアン・ミーティング・フェスティバル」というプロジェクトを進めていて、2001年には東京で、20〜30人くらいのミュージシャンを集めて行われました。もちろん大友さんもそのひとりですから、そこでもまた会って、シンガポールで3回くらい行われた「ライブノイズ・フェスティバル・コンサート」でも会いましたね。
 シンガポールの人たちも、こういうコンサートからインスピレーションを受けて、エクスペリメンタルなものに対する興味が以前より高まってきました。私自身ももっと実験的なことをやりたいと思い始めました。それより前は、ロック・バンドをやっていたんですが、このコンサートを受けて、私としてはバンドの中でもっとノイズや実験的なことをやりたいなと思うようになりました。その後しばらくして、もっと自分自身の音楽をやろうと思い始めて、その他の作業と並行しながらノイズをやることが増えてきました。
 そのころ、いろいろなライヴのオーガナイズもやっていましたが、その中で「HADAKA」という小さいコンサート・シリーズを始めました(HADAKAは、日本語の「ハダカ」から)。ベイエリアに、非常に大きいエスプラニー(Esplanade - Theatres on the Bay)という会場があって、そこの人がわれわれの活動に興味をもって、2007年に、HADAKAをエスプラニーでやってくれないか、とオファーしてくれました。そうするといろんなミュージシャンを呼べるので、私たちとしても願ったりかなったりでした。
 その当時から私は、アジア、特に東南アジアで、エクスペリメンタルなミュージシャンの活動がもっと活性化するべきだと思っていて、これからは東南アジアを中心に、もっと北のアジア、つまり日本や韓国のミュージシャンといっしょに仕事をして、一種の同盟みたいなものが作れないかなと思っていたところでした。当時は、ヨーロッパやアメリカの人たちは非常に活発に動いていたので、同じようなシーンがアジアでも作れるんじゃないか、日本とか韓国、東南アジアでもそれができるんじゃないかと、比較的楽観していました。
 エスプラニーの提案をもらったときに、大きい予算を割いてくれるといわれたので、最初に思いついたのがまさに大友さんだったんです。次に考えたのは、韓国、ベトナム、シンガポール、インドネシアから人を呼べればいいなということでした。結局、そのときは最終的に9人集まって、その9人がそういった活動のボールを転がし始めたようなところがありますね。その当時、すでに大友さんはアジアン・ミーティング・フェスティバルをやっていて、そこからも非常にインスピレーションを受けました。ただ、AMFは日本と韓国が中心で、せいぜい香港どまり、それよりも南のミュージシャンはカバーされていなかったので、それもあって自分たちでこうした活動を始めたわけです。
 HADAKAの後、2008年に大友さんがマルセイユのMIMIから新しいプロジェクトをプレゼンテーションをしないかと依頼されて、それでたぶん私や韓国のリュウ・ハンキルさん、台湾のヤン・ジュンさんに連絡をとり、それでFENというバンドが始まりました。
 2009年にも、大友さんはアジアン・ミーティング・フェスティバルを開きました。とても太っ腹なことに自費で開催されたんですが、あんまり経済的な支援を受けることもできなかったので、その後は今年までずっと休眠状態になっていました。
 私はいま並行してふたつのプロジェクトを進めています。ひとつは「プレイ・フリーリー」というフェスティバルで、もうひとつは去年入ったジ・オザヴァトリーというバンドです。
 プレイ・フリーリーはとても実験的な音楽フェスティバルで、アジアン・ミーティング・フェスティバルの一週間くらい前に、バンコクでやっています。シンガポールからバンコクへ、そしてアジアン・ミーティング・フェスティバルへとつながるようなものをうまく作れればいいなという考えから始まったものです。アジアン・ミーティング・フェスティバルとプレイ・フリーリーは非常に似たコンセプトをもっていて、参加者の中にはエクスペリメンタルな人もいれば、非常に伝統的な音楽を演奏する人もいます。伝統的な音楽をする人は今までエクスペリメンタルな人とはやったことがないような人たちで、まずいったんエゴはドアの外に捨てておいて、フリーにいっしょにプレイしようよというコンセプトなんです。いまは、シンガポールでプレイした何人かが、別のところでもプレイする、といったネットワークができつつあります。
 もうひとつの仕事はオザヴァトリーです。こちらはコンサートを非常に頻繁にやっているので、いろんなジャンルで演奏しているミュージシャンとたくさん出会うことができます。インディーな人もいれば、そうでない人たちもいるわけですから、その両方で活動するメリットは非常に大きいと感じています。

○アジアでも注目を集める実験音楽

――今回のアジアン・ミーティング・フェスティバルは、3日間お客さんもたくさんきて、音楽的にも非常に充実したコンサートだったと思います。チーワイさんは3日間やってきてどんな感想をおもちですか。

 私も同様で、あんなにお客さんが入るなんて、すごく心強い思いがしました。誰も来ないんじゃないかって、最初はみんないってたんですけど(笑)。この数が示す通りの状況になってくれて、ほんとによかったと思います。特にプレイヤーにとっていい結果になりましたね。エクスペリメンタルなことばかりやっている人たちだけじゃないわけで、彼らが次のレベルに一歩足を踏み出そうという、その背中を押してくれるようなイベントになったんじゃないかと思います。ユイさんなんか、これまでとはまったく違う経験ができたんじゃないかな。
 今までと同じ音楽に飽き足らなくなった人はたぶんどこにでもいて、新しいものを知りたい、新しい音楽に触れたいという興味は一般的に存在するんじゃないかと思います。たとえばシンガポールでもプレイ・フリーリーは、どこからこれだけ人が来たんだと思うくらいの動員があり、チケットがソールドアウトになったりするんです。今回の日本でも、アサヒアートスクエアや京都の会場は満員で、やっぱりそれはこの種の音楽に対する一般的な興味・関心のレベルを示していると思います。それはミュージシャンにとっても、本当にありがたいことですよね。

――今回たくさんお客さんが来た原因のひとつは、前の晩のDOMMUNEでチーワイさんとdj sniffさんが素晴らしい演奏をしたせいだと思いますよ(笑)。

 いやいや、そんなことはないですよ(笑)。

――ご存知のとおり、これまでのアジアン・ミーティング・フェスティバルにはなかなか人が来なかった、だけど今回は満員になりました。それで感じるのは、これまでこういう音楽の新しい動きはアメリカやヨーロッパから来ていたけれども、もうそっちからは新しいものはだいたい出尽くしてしまったのではないか、これからは別のところから新しいものが生まれてくるのではないか、別のところに目を向けてみようかというふうに、こういう音楽のファンが考え始めているということなんじゃないでしょうか。

 5年くらい前までは、東南アジアに対してこの種の音楽が注目されることはまったくなかったので、そういう意味で発見する楽しみみたいなものはあるかもしれないですね。

――チーワイさんもアメリカやヨーロッパのミュージシャンと共演することはあるんですか?

 ありますね、ヨーロッパの方が多いですけど。彼らとは、ちょっと違う経験になるといった方がいいかもしれません。ヨーロッパのミュージシャンには、もうエクスペリメンタル・ミュージックの文法とかヴォキャブラリー、そういったある種のルールがもう確立しているので、それをふまえた演奏になるんです。でも、東南アジアのミュージシャンには、そういったものがまだありません。ヨーロッパの人たちと演奏するときはそうした前提に乗っかってやりますが、東南アジアの人たちと演奏するときには、彼らに「こういうやりかたがあるよ、こうやったら君も音楽で輝けるでしょ」と提案していくような演奏のしかたになるんです。

――たしかに、今回の演奏を聴いていて、ヨーロッパやアメリカから来るミュージシャンと日本人のミュージシャンのアンサンブルとは違う印象を受けました。大友さん自身の演奏も、ヨーロッパやアメリカのミュージシャンと演奏するときと、アジアン・ミーティング・フェスティバルでの演奏は違っているなという印象を受けました。

 まさにそうですね、共演相手に対してより繊細に演奏していたと思います。Sachiko Mさんやdj sniffさん、私と大友さんという4人くらいと、それ以外の人たちとでは、たぶん慣れ具合が違うので、私たちもほかの人にどう期待をしていいのかよくわからなかったっていうのはありました。そういえば、大友さんがギターを顔の前に持ち上げて声を出したりしたのを見たのは初めてですよ!

――僕もです!

○「人間の動物園」にならないように

――ところで、チーワイさんがこのフェスティバルで果たした役割は、簡単にいうと今回のミュージシャンの何人かをキュレーションしたということだと思いますが、どういう観点から選ばれたのかを教えてください。

 実は、それほど深くは考えていませんでした。でも、ひとつはやはり東南アジアの女性の実験的なミュージシャンというのは基準になりましたね。まだこの分野での女性は少なくて、新しい存在です。でも、彼女たちに、より広い世界の中で声をあげてほしいと思いました。
 予算の制限もあったので、本当はもっと多くの人たちを連れてきたかったんですが、今回リストアップした人たちを何度も見直して、とにかくこの人たちを見ていればだいたい東南アジアの音楽シーンがわかる、というくらいの気持ちを選びました。
 年齢も若い人からそうじゃない人まで含めています。レスリーのようにシンガポールで長いこと音楽シーンで活躍している人も入れました。彼はフォークや、アコースティックな音楽を演奏しているし、解散はしたけれど、やはり認知されてしかるべきハンプバック・オークという素晴らしいバンドをやっていました。彼の仕事そのものが認識されるべきと思って、彼を選びました。
 基準の話に戻りますが、ここに来てもらうことで、単に他のところから来た人たちとセッションできてよかったねというので終わらないような人たちを選んだつもりです。つまり、ミュージシャンとして今後自国の中での活動につなげていってくれるような人たちですね。いってみれば、彼らを育て、活動を発展させていくような、という基準で選んだといえるでしょう。
 逆に、アジアン・ミーティング・フェスティバルを、人間の動物園みたいにはしたくありませんでした。エキゾティックな人を連れてきて、みんなにお見せしますよ、みたいなことにはならないように気をつけたつもりです。選ばれたミュージシャンは、それぞれ自分の国ですごい能力を発揮して、いろいろなことをやっている人たちばかりです。だから彼らのやっていることに対して、もっとリスペクトされるように、それから、彼らが自国に戻って、それぞれの国の音楽シーンのレベルをもっと高くできるように、その一助になればという観点から選んだつもりです。
 逆にお聞きしたいんですが、このアジアン・ミーティング・フェスティバル以前に、東南アジアの音楽シーンに対して、どんな印象をもっていました?

――正直なところ、あまり知りませんでした。2009年のアジアン・ミーティング・フェスティバルは行っていたんですけど、そのときもそれほど強い印象を受けたとはいえません。一方で、東南アジアの伝統的な音楽には興味があります。だから、僕自身にとっても今回のこの仕事は非常に意味のあるものでした。さっきいったアメリカやヨーロッパ以外のところに興味が出てきたというのは、自分のことでもあります。こういう時期にこの仕事に出会えたことは幸せでした。

 ありがとうございます。

――具体的に今回のメンバーの中でチーワイさんが選んだ人たちは?

 インドネシア以外のアジアの人は私が選びました。カク・シューワイ、レスリー・ロウ、ユイ=サオワコーン・ムアンクルアン、グエン・ホン・ザン、ルオン・フエ・チンですね。

――僕の目から見ると、インドネシアの人たちはわりと大勢でセッションすることに慣れているけれど、チーワイさんが選んだ方々はソロでやることが多くて、こういうふうにいっせいに演奏することにはあまり慣れていないように思えました。それはそういうハードルを乗り越えてほしいという意図が含まれているんでしょうか。

 もちろんそうです! 選んだときに、それぞれの人たちに対して、この人はここまで行けるんじゃないかと、とても大きな期待をもって選びましたから。

――彼らは期待にこたえてくれましたか?

 継続的なものなので、まだまだもがいているさいちゅうだと思いますけどね。私はミュージシャンなので、キュレーター的にいろんなものを見るのはなかなか難しいところがありますが、でも私としても、こうして選んだミュージシャンがほかの人たちともっとコラボしたりして、どんどん育っていってくれればいいなと思っています。これはまさにいま進行していることなんです。

――こういうミュージシャンたちとは共演して知り合うわけですか?

 レスリーとは2日にいっぺんくらいは演奏したりしますけれども(笑)、彼以外には会ったことはあったり、見かけたことはあったり、聞いたことはあっても、いっしょに演奏したことのある人はいません。
 この中で面白いのはユイで、彼女は興味深い人ですね。もともとはクラシックをやっていたんですが、大胆にも「Thailand's Got Talent」っていうアメリカの才能発掘番組みたいなオーディション番組に出たりもしていたんです。ただそこでは、少し暗すぎるということで、あまり受けは良くなかったようです。でも、それは逆にいえば、彼女自身のキャラクターをこの後に作っていけるんじゃないかということで、私はむしろ彼女の伸びしろの部分を感じました。私はこちらに来た彼女に、ほかの人の音楽をよく聴いて、どの人と今後演奏していきたいか考えてみてね、といっておきました。彼女はもうすぐアルバムを出すので、非常に役に立つんじゃないかなと思います。

――ベトナムのミュージシャンは二人ともエレクトロニクス奏者だというのが興味深かったんですが、この二人を選んだ理由を教えてください。

 ベトナムからはもっと人を連れてくるつもりだったんですが、予算の都合でダメだったんです。ザンに関しては、若くて反逆児的なところがあるので、まさにインドネシアですごく盛んになっているパンクやメタルの「ほんとにやりたいことを俺はやるんだ」みたいな姿勢に通じるものがあると思って連れてきました。それからチンさんの方は、もうちょっと伝統的なベトナム音楽をサンプリングしていて、興味深いですね。本当はもうちょっと伝統的な音楽を演奏する人を連れてくることも考えていたんですが、それをしてしまうと、さっきいったエキゾチックな人を集めた動物園みたいなものになってしまうので、この二人になりました。

――dj sniffさんと選び方に共通しているところがあると思ったのですが、彼もインドネシアから三人とも違った個性をもち、違う街に住んでいる人たちを選んでいますね。ベトナムの二人も別の街に住み、同じエレクトロニクスを使ってはいるけれど使い方はずいぶん違っています。その違いは、二人の住む街の違いを表しているような気がしましたが、この点についてはいかがでしょう。

 東京と大阪の関係みたいなものでしょうか。チンさんがハノイで、ザンさんがホーチミンなんで。お互いが競り合っている印象を受けますね。

○それぞれの人がいろいろな活動を

――チーワイさん自身の音楽についてお聞きします。先ほどチーワイさんはノイズといわれていましたが、こういう音楽を演奏することになったきっかけは何ですか。

 特に理由はないんですけどね。表現方法を模索していて、音源として新しいものがないかと思ってギターをいろいろといじくっていて、いろいろな音を出す実験的なことをやっているうちに、こういうことになったといってもいいかもしれません。ラップトップで音を出すことが簡単にできたし、友達がふたり、同じようにラップトップで音を出していたので、こういうかたちになったということもありますし、大友さんの影響もあれば、ノルウェーでプレイした経験もあるかもしれません。
 でも、私は自分をノイズミュージシャンとも思っていないんです。もっと以前には、アンビエントとかドローン系の演奏をしていたので、いっしょに演奏している人に私が合わせているという感じかもしれません。

――オザヴァトリーに加入したのは、どういう経緯で?

  オザヴァトリー自体がメンバーチェンジの時期だったんでしょう。レスリーとは過去何回もツアーをやっていて、ずいぶん前からの友人なんです。メンバーチェンジをするときに、参加したいかと聞かれたので、ちょうど彼らもサウンドの方向性を変えようという時期だったので、前回のアルバムと今回のものではまったく違う方向性なんですけれども、そういうこともあって参加しました。

――チーワイさんは東南アジアのいろんな国のアンダーグラウンドの音楽シーンに友達がいるんですか。

 そうです。たくさんいますし、それぞれお互いが知り合いで、なんだかネットワークができているようなところがありますね。それを大友さんが見てインスピレーションを感じたのかもしれません。いろんなシーンでいろんなことが起こっているので、その点と点をつないで、ということを大友さんが考えたのかなと思いました。

――今回のフェスティバルでは、若いミュージシャンが多かったと思います。東南アジアには、レスリー以上の世代、40〜50代でこういう実験的な音楽をやっているような人たちはたくさんいるんでしょうか。

 シンガポールでもそうですが、実験的なことをやっている人たちは、それ以外にも、ヴィジュアル・アートなどいろいろなことをやっています。さっきのシューワイさんのように、生計は他のところでたてているわけです。シンガポールでも、エクスペリメンタル・ミュージックだけでは生計は成り立ちませんが、ずっと続けている人たちはいます。

――たとえば、シンガポールだとどんな人がいますか?

 エレクトロニカやフォークでは、ザイ・クーニンさんがいますね。ノイズはそれほどアクティヴじゃないし、シンガポールは国が小さいのでそれほど人数は多くありませんが、若い人たちもやっています。KITCHENというレーベルがあって、ここはアンビエントな作品やピアノものなど、いろいろリリースしていますね。
 私自身は、エクスペリメンタルだからというんで興味をもつわけではなく、パッションをもってフルタイムで音楽にかけている人に興味をもっています。特にシンガポールは生活コストが高いので、それはかなり難しいわけですが。

○シンガポールの政治をめぐって

――僕は一度シンガポールに行って、非常に強い印象を受けました。たぶん、いま東京に住んでいる人なら、シンガポールに行きたい、あるいは暮らしたいと感じる人が多いんじゃないかと思います。そういった環境を作っているのが政治であることは間違いないでしょう。チーワイさん自身は、シンガポールでこういう音楽を続けていく上での良い点、悪い点についてどう考えていますか。

 実は、誰もシンガポールにいたくないんです。どうにかしてシンガポールから出ていきたいというふうに思っているでしょう。私たちも、バンドとしてどうやってこの国から出ていくのかという自己葛藤の中にあると思います。私たちのメンバーにも、フリーランスで学校の先生をやっていて、別のところではトリオを演奏していて、という人たちもいます。でも、こういう政治をやっているシンガポールでこの種の音楽をやるということは、逆にいえば、反システムに対しての、非常に強い勢いを与えてくれる場所であるとも思っています。今起こっていることに対する強いアンチの気持ちや、そこまで抑えつける圧政に対する滑稽さを、強く反映したような歌詞ができあがると思います。
 みんな正直でいい人たちなので、思いついたことを口にしてしまうわけですよね、システムに対する挑戦みたいなことだとか。抑えつけられれば抑えつけられるだけ、われわれは反抗するわけですが、その反抗のしかたが非常にエレガントになるわけです。ただ、以前はたくさん友達がいたけれど、ヴィジュアル・アートをやっていたり、ミュージシャンをやっている友達の中には、このシステムはもう望まないと諦めてしまって、シンガポールを去ってしまった人たちも徐々に増えています。
 ナショナル・アーツ・カウンシルっていう団体がシンガポールにあるんですが、そこはアーティストの分断をうまくやっているところです。アーティストが集まって声をあげると非常に大きな力をもつことになります。だから、なるべくアーティスト同士が集まらないように、分断してコントロールするということをやってます。人によっては管理されたくないと思うでしょうが、それをいってしまうと、まずひとつは軍資金というか助成金が出なくなる。二番目に、アーティストが集まって何かやろうとすると、そういう場所を取り上げてしまう。三番目に、逆にそういうアーティストを取り込んで、自分たちがやりたいようにやらせるというかたちを取るというように、非常にシステマティックなやりかたをとっています。
 最近非常に議論を呼んだことにこんなことがあります。今年はシンガポール独立50周年記念の年にあたるんですが、シンガポール観光局、政府観光局とナショナル・アーツ・カウンシルが、「SG50」と称するシンガポールのプロモーションを大々的にやっていますが、このプロジェクトには非常に大きな予算が割かれています。今年どこかの段階で大きなセレモニーをやるんですが、セレモニーの企画委員会が募金をしていて、募金が集まったらそれと同額のお金を政府が税金を使って拠出するというスキームになっているんですね。それで実際に何をやったかというと、50台のスタインウェイのグランドピアノを購入し、それに全部で130万ドルもかかったというんです。50台のピアノを買ったということは、それを演奏するミュージシャンが50人いるわけですけれども、オーディションに来る人たちには日当も払わない。夕食を越える時間になったら食事代は出すくらいです。そういうアプローチなんです。
 組織委員会としては、セレモニーが終わったら、この50台のピアノは学校に寄贈するというんですが、それをもらう学校の方にもすでにピアノはあるし、音楽の授業だってやっているわけです。だから、それをしたといって何も変わらない。組織委員会の考え方としては、素晴らしいシンガポールの音楽の遺産を示すということなんでしょうが、130万ドルものお金を投じてグランドピアノを買ったとしても、ミュージシャンには何のメリットもない。
 こうしたナンセンスなシステムと闘うという役割を負うことが、いまわれわれがミュージシャンとしてやっていく糧になっている気がします。もともとは音楽がやりたくてミュージシャンになったわけですが、でも現在のこうしたナンセンスを暴露するという役割を、われわれはすでに担ってしまっているんです。
 たとえば、このプロジェクトをやっている団体のFacebookやサイトから「こんなお金でこんな使い方するくらいだったら、バンドを100くらい選んでそれぞれにアルバムを出させてやればいいじゃないか」と尋ねると、「これはプログラムなので、彼らが何をやっても自由で、自分たちにはどうしようもない」みたいな答えが返ってくるんです。そういうやり方をしていると新聞記者が聞きつけて、われわれのFacebookやウェブサイトに対する書き込みをちゃんと記事にしてくれたりもしているのはいいことですね。

――ご存知のとおり、いま日本の政治は非常に危いことになっていて、われわれは非常にそれを残念に思ってます。しかし、いま国民のかなりの割合がコントロールされたがっているように僕には思えてしかたがありません。

 クレイジーでしょう、コントロールは。シンガポールだと、今の政府はずっと続いていって、おそらく政権交代はないだろうと思います。権力にしがみつけるような、とっても賢い政府なので。

――僕がシンガポールで会ったあるおばさんは、与党を支持していました。彼女は、昔は非常に貧しい暮らしを強いられていたけれど、現与党が政権をとってくれたおかげで、いまはふつうに生活できる、そのことには感謝しているといっていました。

 アーティストとしても、過去10年の間に、今の政権がやってきた中にはいいこともあるっていうのは認めますけどね。しかし、独立以来、たとえば初代の首相であるリー・クアンユーが何をしてきたかといえば、政敵を殺してきたわけですよね。コミュニストとラベリングして、丸刈りにして拘禁し、裁判もしないで収監するということもしていたわけですから。もし、共産党員だといってパージされた人が、政治の世界に残っていられたとしたら、シンガポールは今よりもっといい国だったかもしれません。
 昨年作られた『トゥ・シンガポール・ウィズ・ラヴ』というフィルムがあるんです。リー・クアンユーは政敵に共産主義者というレッテルを貼って拘禁し、彼らは解放された後に自分の国には残っていられなくなって、お金のない人はタイへ、お金のある人はヨーロッパやアメリカに逃げてしまいました。この映画は、タン・ピンピンという映画監督がそういった人を追いかけて、当時のことを聞くという非常にパーソナルな内容なんです。でも、この映画をシンガポールで上映しようとしたら、政府は愚かにも上演禁止にしてしまいました。つまり、映画そのものが亡命状態になって、シンガポールには戻れなくなったわけです。結局、ジョホールバルっていうマレーシアのほとんどシンガポールの隣にある、国境を接しているような街でしか上映ができませんでした。
 今日は、アジアン・ミーティング・フェスティバルという音楽のイベントについて話していましたが、こうやって話が政治に及ぶのはとても面白いですね。シンガポールで、あるいはわれわれの周りで何が起こっているのかを知ることで、われわれのやっている仕事はもっと意味をもつことになるでしょう。たんに音楽のための音楽をやるんじゃなくて、ミュージシャンとして演じる役割がもっと大きくなるでしょう。ミュージシャンとしてシステムを変える新しい可能性を発見しようとするのも、大友さんがやっている風営法に反対する運動などにも見られるとおり、とても興味深いことだと思います。

――政治に関して非常にシリアスな話をしてくださいましたが、そうだとしたら逆にチーワイさんのシンガポール人としてのアイデンティティはどういうところにあるんでしょう。それとも、そうしたアイデンティティを捨てたいと思っているのでしょうか。

 それはシンガポール人みんなが思い、あるいはもがいていることです。シンガポールの文化とは何かを定義することは、非常に難しいんです。そもそもいわゆる「シンガポールの文化」というものはないわけです。もともとは先住民のマレー人の国で、その後中国人が入ってきたら、すべてが中国一色に塗り替えられてしまったような国ですから。政府は一生懸命シンガポール文化とかシンガポールのアイデンティティをどうにか作り出そうとしていますが、それはうまくいかない。私は私であるというしかないんです。だから私は海外に行くときには、「私はシンガポール人です」というかわりに、あえて「私はアジアから来ました」といいます。東南アジア人という方が、私としてはしっくりくるんです。東南アジアというくくりならば、ベトナムやタイやマレーシアは文化的に似たところが認められますし、ことばもちょっと似たところがある。食べものもよく似ていて、たぶん食べもの自体が文化と文化を繋ぐ、糊の役目となっていると思うんですね。

――大友さんは、シンガポールに住むチーワイさんや香港で暮らすdj sniffさんを文化的なハブと考えているんじゃないかなと思います。チーワイさんも、そこで非常に大きな役割を担うことになりそうですね。

 そうなんです、シンガポールは地理的にもとてもいい場所にあるんです。東南アジアの中で、インドネシアやマレーシア、タイ、ベトナム、カンボジア、ミャンマーといった国々のいわば中心のような場所ですよね。昨日大友さんとも、シンガポールはこれだけ地理的・戦略的に重要な場所にあるのに、どうしてシンガポール政府がアジアン・ミーティング・フェスティバルみたいなプロジェクトを自分たちでやらないんだろうねっていう話をしていたばかりです。まあ、ハブになるんだったら、文化とか音楽よりも、科学や製薬といった分野でハブになりたいのかもしれませんね。

――長い時間、どうもありがとうございました。

 もうおしまい? もっともっと聞いていいよ(笑)。