C・スペンサー・イェ
インタビュアー=山本佳奈子(Offshore)
◯ロック・バンドでのカセットMTRとの出会い
――バイオグラフィを簡単に教えてもらえますか?
台湾で生まれました。5歳のときにアメリカ合衆国へ来て、少しカナダのモントリオールに滞在したこともあります。それ以降は、90年代から人生の大半をオハイオ州で過ごしました。大学でイリノイ州シカゴのノースウェスタン大学へ行き、映画を学んでいました。子どもの頃から映画がとても好きだったので、大学では主に実験映画を学んでいましたね。
――バイオリンなどの楽器を演奏するようになったのはいつ頃ですか?
バイオリンとはまた別の話なのですが、演奏することにおいて一番今の自分に直結していることは、高校の終わり頃、4トラックのカセットMTRに出会ったことです。友達が私にMTRを見せてくれたんです。その頃もバイオリンは弾いていたんですが、それと音楽活動とは別でしたね。たぶん7歳の頃からバイオリンを始めましたが、宿題や餌を与えられているような感じで、何か違う、と。自分のなかでいくつかそういうサウンドについて特別な考えを得た瞬間があったんですが、バイオリンを習っていたことは、今思えば、規定されたものを破る試みを始めるきっかけだったかもしれません。高校の時にはバイオリンのレッスンから離れ始めました。そしてギターやベースを学校で借りて弾くようになりました。そこで4トラックのカセットMTRに出会うんですが、自分の思う作曲という概念にたどり着いた感じですね。彫刻や、ビデオ編集に近いような。
――カセットMTRに出会ったときのこと、覚えてますか?
高校でバンドを一緒にやっていた友達が見せてくれました。当時いろんなアイディアを持ち寄ってやっていたので、単にそのなかのひとつのアイディアでしたね。録音してみよう、と。楽器がうまい人もそうじゃない人もいましたが、オーバーダビングしてみたり。
――その頃はどんな音楽をバンドでやっていたんですか?
ミニマルロックなどですね。話は逸れますが面白い話があります。自分にとって一番大事なことは音楽そのものなのですが、友達にとってはバンドの名前とか、バンドのイメージ、曲のタイトルがどうかとか、そういうことが大事になってしまう。私は音にこだわりたかったのですが、当時、多くの人が「どんなバンドであるべきか」ということに力を入れてしまう。もっと音楽的に貫いたロックを演奏したかったんですがそうもいかなかったですね。
◯雑誌やMTV、ラジオ局インターン時代に傾倒したノイズ・ミュージック
――どういったきっかけでノイズや即興音楽に傾倒していったんですか?
一番最初のきっかけは、まだ大人になっていない頃、TVを見ていたときだったと思います。TV番組『Night Music with David Sanborn』や、Sonic Youthが出ていた番組を見ていました。そういうときに、「変な音楽だなあ」と思うものがあって、探したりしてましたね。「このバンドなんだ?どこでカセット買えるんだろう?」って。高校時代、音楽をよく知っている友達とも互いに聴きたい音楽をリストアップして探したりして。当時Thurston MooreがMasonnaのライブ動画をMTVで紹介したりもしてたんですよ。今思うとそのときの経験が、自分の今を導いていますよね。John Zornについてもその頃知ったり、とにかくライナーノーツなどを読んでリサーチして、情報を追いかけていました。あと雑誌もよく読んでましたね。ホラー映画の雑誌とかも。
当時のオルタナティブな雑誌には、広告で世界のディストリビューターが載ってたりしていて、「Whitehouseってバンド聴いてみたいなあ」とか、知るきっかけがいろいろあったんですね。MerzbowがRelapse Labelからリリースする情報も雑誌で見ました。「The sickest electronic music ever made!(過去最強にヤバい電子音楽!)」とか書かれてるんですよ。だから「うーん、これは聴いてみたいよね」と思って探して。
シカゴで大学に通っているときも、とても良い経験をしていましたね。映画を勉強していたのですが、どんどん実験映画に傾倒していきつつ、ラジオ局のインターンとしても働き始めました。ロック音楽番組の担当をしていましたが、クレイジーな音楽にも焦点を当ててたんです。当時DJをやっていたJohn Corbettはフリージャズや即興音楽を紹介していましたし、あとJim O'RourkeもDJをやっていたり。また、Peter Kolovosと仲良くなったのもその頃で、よく話しましたね。彼は昨今、P.S.F. Recordsのカタログをアナログで再発しています。あの頃私とPeter KolovosはSKiN GRAFTレーベルに注目していて、Melt-BananaやZeni Gevaの音源をチェックしていたり。毎日ラジオ局で働きながら新しい音楽を発見していました。
また、シカゴのダウンタウンにあったタワーレコードに行ってセールのコーナーに行けば、山ほどこういった音楽のCDがあった。買う人がいないから値下げされていたみたいなんです。きっと、こういった音楽に詳しいとても良いバイヤーがいたはずです。あの頃もっとお金を持っていればよかったなあと、今になって思います。
本当に私にとって素晴らしい時期でした。他にも、イリノイ州にはヴィンテージのレコードを取り扱う店もありましたし、WhitehouseのメンバーだったPeter Sotosもシカゴにいて会えたし、すべてのことが同時にシカゴ周辺の各地域で起こっていた。特別な環境でしたね。
――最初に演奏をしたのはいつでしたか?
大学の頃、友達とドローンのような音楽を何回かパーティーで演奏していました。あるパーティーの翌日に、大学の新聞に私たちのライブについて書いたライターがいたのですが、文句言われてて。それは良く覚えていますね。一緒に演奏した友達は「お前はこういう音楽があるというヒストリーを知らないのか?!」とか言ってライターに言い返して(笑)。私は、「振り返れば、部分的には良い演奏であったし、あまり自分のやったことについて後から護身するようなことはしないでおこうよ」という風に、なだめましたね。自分の音楽活動における最初期で一番記憶に残っているライブでした。
◯電子楽器、バイオリンやヴォイスを使った現在のスタイルへの礎
――それから、大学を出て、アーティストとして活動していくんでしょうか?
そう言えるかもしれないです。映画史の学位をとっても、その先何をしていくのか特に考えていなかったんです。何をするのか、なんとか見出そうとはしてたんですが。1993年から1997年まで大学へ行くためにシカゴで過ごしていましたが、それから家族の都合もあってオハイオに戻らなければならなかったんです。オハイオにはずっと戻っていなかったので、そこで何が起こっているのか、まずは知ることからでした。最初に、いろんな人に会う機会をつくりました。小さい町なんですが、歴史のある町で、ポストパンクや変な実験音楽をやっていた人もいたんです。例えばJohn Bender。ローファイな音でシンセとテープを使って地下音楽を作っている人ですが、町でよく見かけました。そして当時はお互いにロックに熱心だったのですが、最近になって、John Benderと再会したんです。彼の音楽の再発プロジェクトを行なったり、一緒にライブ演奏もしています。
その頃は、たくさんのキーパーソンに出会いました。スペースを提供してもらい、ライブのオーガナイズを教えてもらったり、またあるスタジオでは「いつでも来ていいよ」と言ってもらえて、そこの素晴らしいレコードコレクションを掘り下げたり。タージ・マハル旅行団、高柳昌行を知ったのはその頃で、サウンドポエトリーやフルクサス関連の音源もそこで聴きました。ただ、学生の頃とはまた違った音楽にハマっていったんです。学生のころは特にノイズミュージック、日本のノイズを掘り下げていましたから。
――そのスタジオで録音したりもしたんですか?
はい。その頃、自分の音楽を録音することも始めました。今思えば面白いんですが、当時の録音はBrian Enoに結構影響を受けてましたね。Brian Enoってポップミュージックでありながらも典型的なミュージシャンとは違う。素晴らしいポップミュージックだと思ってます。Brian Enoに影響を受けて、ポップミュージックなんだけれどもテープコラージュでもある、そういう作品を青臭く作ってましたね。ノイズなんだけれども曲であり、曲なんだけれどもノイズであり。再生される環境を選ばない音楽を作っていました。
――その後、バイオリンを再び手に取るのは?
確か、何かのパーティーで「バイオリン弾いてたんだよね?あるから貸すよ。弾いて」って言われたときがきっかけでした。しばらく弾いてなかったし、「うーん......」と思ったんですが、まあ、少しは弾き方を覚えているかなと。手にとってみると、意外と覚えていました。これはバイオリンで何かできそうだと思ったんです。当時電子楽器を使っていましたが、バイオリンはアンプラグドでも音がなる。そこが再びバイオリンに向かってみようと思った理由でした。
また、ヴォイスを楽器として使おうと思ったことに関して。先に話した日本のノイズやノイズロックに傾倒していたときに、山塚アイやMasonnaを知りました。Joan La Barbaraなども。いろんなスタイルがあります。自分の声を使うにあたって、いろんな試行を重ねて自分のものにしていきました。時間をかけて自分なりのヴォイスの手法を確立してから、ライブでやりましたね。というのも、当時、ヴォイスを使ったアーティストは少なくなかったんです。楽器としてヴォイスを使う人もいれば、スポークン・ワードとしての手法もある。自分の人生では、何においても、「ちょっとこれを取り入れてみよう」と思って取り入れてみて、それだけで満足することはありませんでした。電子楽器を用いるうえでも、バイオリンにどんどん電気を通してみたりして挑戦していったんです。声を使うことによる作用はなんなのか。自問し手法を確立しました。ドローン音楽もよく作っていますが、ドローンの機能について熟考して用います。
◯アメリカ合衆国とアジア:アイデンティティとしてのホームと、音楽においてのホーム
――Asian Meeting Festivalに今参加されているなかで、このプロジェクトへの印象を教えてください。台湾で生まれアメリカで暮らし、台湾を離れてもう長いと思います。今回アジアの音楽家やアーティストに会って、どう感じましたか?
コミュニティやグループの形でアーティストたちが出会う機会って良いですよね。オハイオにいたときは、ミシガン州やケンタッキー州、他北西部のいろんな地域のアーティストたちと関わりがありましたから......、あ、この話はいいや、また過去に遡ってしまうので、今の話をしましょう(笑)。
今このアジアのコミュニティと自分との関係を探ることは、自分にとって興味深いことです。私はアメリカ合衆国に移民として台湾からやってきて、アメリカで育ちました。当時、子供なりに状況を理解していったんだろうと思いますが、また両親には両親で、別のレイヤーで努力してきたことがあっただろうと思います。少しは中国語を話せるけれども、人生の多くをアメリカで過ごしてきています。今回Asian Meeting Festivalに参加することで、自分がこれまでこのアジア地域に貢献できたことがあったのかどうかも考えました。アイデンティティを呼び覚まされたということでもあります。
またアメリカ合衆国では、旅行したときにはいつも他の人のストーリーを積極的に聞くようにしています。そこで自分が関心を持つことがあれば、より深く知ってその地に関わっていけますから。今回Asian Meeting Festivalにやってきて、このアジアのコミュニティが、どういう風に関わり合っているのか、個々のアーティストがどのような考えを持っているのか、とても興味があります。そして、アーティストのジャンルやスタイルがそれぞれ違いながらも、一緒に音楽で遊ぶことができている状況が素晴らしい。
東アジアや東南アジアにはたくさん国がありますが、ひとつの大きなコミュニティだと思っています。それはアメリカ合衆国も一緒で、地域ごとに違いはあるし、きっちり線引きされている事もあります。また今回、自分にとってはホームに帰ってきたような形なのですが、そのホームとは、慣れ親しんできたホームという意味合いと完全に違うのです。だからこそ、ここでコネクションを作れることはとても良い機会です。
と同時に、今回のAsian Meeting Festivalは音楽の面で言うと、自分が慣れ親しんでいるホームです。様々なアーティストが放り込まれて、誰かに指示管理されずに演奏できる環境。ということは、私にとっては、「新しいコミュニティとつながる機会」ではなく、「まだ会ったことのなかった同郷の人たちと、アジア地域で繋がることができた」という感覚でしょうか。