ヨン・ヤンセン

ヨン・ヤンセン

ヤンセン1.jpgインタヴューア=大石始

◯デス・メタルからジャズへ

――まず、アジアン・ミーティング・フェスティバルに参加した感想を聞かせてください。

 公演を終えてから、みんなで打ち上げのパーティーをしたんですね。本当に和気あいあいとした雰囲気で、みんなで笑い合ったり抱き合ったり、まるでひとつのファミリーのようでした。

――今回の公演のなかで一番記憶に残っているセッションは?

 毎回まったく違うものだったので、どれも印象深いですね。最初はお互い知らない同士でしたし、パフォーマンスの仕方や音の出し方も全然知らない状態でいきなり即興をやったわけですけど、その段階でもある程度うまくいったんですよ。2回目、3回目と公演を重ねていくちに相手の特徴もだんだんわかってきて、だんだんマッチするようになりました。最後はお互いの内なるものを出せるようになって、特別な演奏になったと思います。音楽で遊んだ、音楽を楽しんだという感じがしましたね。

――ヤンさんはアジア以外のミュージシャンと一緒にやる機会も多いと思うんですが、アジアのミュージシャンだからこその特別なフィーリングを感じるようなことはありましたか。

 一言で言うと、ヨーロッパの人たちは真面目ですね。わりと固いというか、真面目に音楽に対応しているという感じを受けます。ヨーロッパの方たちと一緒にする時は完全な即興ではなく、だいたいやることが決まっているんですね。そうじゃなかったとしても、方向性があらかじめはっきりしていることが多い。言ってみれば、創造する余地、空間があまりないわけです。でも、今回は違いました。とても懐かしい感じがしたというか、以前にも会ったことのあるような感じを受けました。もうひとつ、西洋のミュージジャンは常に音楽の話をしていますが、今回のミュージシャンたちと音楽の話はあまりしませんでした。遊ぶこと、ご飯のこと、食べることばっかり(笑)。本当に楽しかったんですよ。

――ヤンさんのこれまでのキャリアについてもお話をお聞きしたいんですが、お生まれはクアラルンプール?

 生まれはセランゴール州というクアラルンプールの近郊で、12歳のときにクアラルンプールに移りました。

――音楽に関心を持ったきっかけは?

 12歳の頃から家族の強い薦めでピアノの稽古に通うようになりました。毎日毎日ピアノの譜面に向かって稽古してたんですが、当然譜面通りに弾かなければならないわけですよね。ここは強く、ここは大きく、それからテンポはこうこう......という縛りが多くて、まったく楽しくなかった。それでピアノをやめ、ギターを始めました。その頃からロックを聴くようになったんです。

――その当時好きだったアーティストは?

 セックス・ピストルズ、ブラック・サバス、セパルトゥラ、モービッド・エンジェル......。

――モービッド・エンジェル! いきなりデス・メタルまでいっちゃったわけですか。

 そうなんです。あまりにハマってしまい、15歳のときにはパンクとデス・メタルから影響を受けたバンドを始めました。

――ちなみに、ヤンさんって何年生れですか?

 1976年です。

――僕は1975年生まれなんで、ほぼ一緒ですね。僕も15歳の頃、同じようにヘヴィ・メタルのバンドをやってましたよ。

 わはは、そうですか! 僕の場合はピアノのレッスンでイヤな思いをしていたので、パンクやロックに出会ったとき、ものすごく解放感があったんです。また、当時はクアラルンプールにいくつかライヴハウスがあって、パンクのライヴなどもたびたび行われていました。

◯パティシエからミュージシャンへ

――では、サックスを手にしたきっかけは?

 それを説明するためには、2000年のことから始めないといけませんね。まず、自分のバンドを率いて中国大陸へ行く機会があったんです。そのバンドはポスト・パンク系のバンドで、私はギターとヴォーカルを担当していました。そのとき現地のライヴハウスに遊びにいったんですけど、確かにどのバンドもうまいんですが、同じような曲ばかりで飽きてしまった。ロックに対していろんな思いを持ってしまい、クアラルンプールに戻ってから自分のバンドを解散させたんです。

――それでサックスを始めた?

 いや、バンドを解散させてからパティシエになるべく、ケーキ職人の見習いを始めたんです。

――えっ、そうなんですか!

 はい(笑)。みんな「美味しい」「職人になれる」というのでケーキを作る仕事に就いたんですが、同じ頃、友人にジャズを教えられたんです。それで突然サックスに目覚めました。ただ、楽器を買うにはものすごくお金が必要なので、働きながら必死にお金を貯めて楽器を買ったんです。でも、最初に買ったのはサックスじゃなくクラリネットでした。

――なんでまた(笑)。

 やっぱり少し物足りなくて。音が小さいんですよ(笑)。それでフルートを買ったんですが、またピンとこなくて。その頃ようやく仕事も軌道に乗ったので、念願のサックスを手にすることができました。

――クアラルンプールに戻ってからジャズに目覚めたということですが、どういうアーティストに衝撃を受けたんでしょうか。

 初めて手にしたレコードはジョン・コルトレーンです。ものすごく好きになりました。それまで聴いていたデス・メタルやパンクとはだいぶ違いましたけど、私はジャズにある種の自由を見つけたんだと思います。音感にしても質感にしても展開にしても、とても自由な感じがしたんです。

――今回のアジアン・ミーティング・フェスティバルでヤンさんのパフォーマンスを拝見して、素晴らしいと思ったんです。ヤンさんのサックスは本当にダイナミックでアグレッシヴですけど、ヤンさんの根っこにあるロックのスピリットみたいなのを表現するには、サックスという楽器が一番適していたんでしょうね。

 まさしくご指摘の通りです。クラリネットを演奏していたときはいつもじれったい思いをしていて......どうしてクラリネットやフルートでは大きな音を出せないのか悩んでいました。クラリネットやフルートの優美でエレガントな音色は大好きなんですけど、いかんせん音が小さいんですよ(笑)。

――ヨンさんの今の活動について細かくお聞きしたいんですが、まず、ヨンさんのメイン・プロジェクトのひとつであるクラングミューテショネンはどのように始まり、何を目指しているのか。その点を教えてください。

 クラングミューテショネンは私がサックスをやり始めてから2、3年経った頃に作ったバンドです。ドラマーがひとりいて、ノイズとドローンを鳴らすギターがひとり、サックスは私も含めて2人。全体的にダークな感じの音ですね。

――バンド結成当時(2003年)はクアラルンプールのどういった場所で演奏していたんですか。

 エクスペリメンタルな音楽をやってるバンドは私たち以前にほとんどいなかったし、エクスペリメンタル専門のライヴハウスもなかったんです。それでヘヴィ・メタルやパンクのライヴハウスでやらせてもらっていました。あとはギャラリーでもよくやりました。

――クラングミューテショネン結成以降、エクスペリメンタル系のバンドは増えました?

 いや、しばらく私たちだけです。でも、5年以上経った頃でしょうか、2010年あたりから真似る人たちが出てきました。

――クラングミューテショネンのほかに、シンガポール在住のオーストラリア人/アメリカ人ミュージシャンと共にゲーム・オブ・ペイシェンスというトリオでも活動されてますよね。

 そうですね。ジャズ・ドラマーを探したんですが、クアラルンプールにはいいプレイヤーがいなかったんです。ドラマーのダレン(・ムーア)さんからシンガポールのモザイク・フェスティバルへの参加オファーをいただき、そこで初めてトリオとしてパフォーマンスを行いました。それが2009年だったと思います。ダレンさんとベースのブライアン・オライリーはシンガポールのラサール芸術大学で音楽講師もやっていました。

◯マレーシアでエクスペリメンタルなことを

――ヨンさんはマレーシア唯一の実験映像/音楽祭である〈クアラルンプール・エクスペリメンタル・フィルム・ビデオ&ミュージック・フェスティバル(KLEX)〉のキュレーターもやっていらっしゃるんですよね。

 音楽部門のキュレーターをやっています。最初は実験映画の小さなイベントだったんです。アメリカで映画の勉強をし、現在ヴォイス・パフォーマーとして活動しているカク・シューワイさんと協力して、手作りの映画祭を始めたんです。

――現段階でマレーシアの方々にはこのフェスはどのように受け取られているんでしょうか。

 1回目は誰も来ませんでした(笑)。みんな〈難解すぎる〉というばかりで......それで、2年目からは映画だけでなく、音楽もプログラムに組み込んで〈エクスペリメンタル・フィルム・ビデオ&ミュージック・フェスティバル〉にしたんです。私はですね、このフェスティバルのせいで多くの友達を失いました(笑)。1回目の映画祭のとき誘った友人たちはあまりに内容が分からないということで、もう二度と来てくれなかった。そうやって一人一人友人が減っていったんです......。

――それは悲しいですね......。

 クアラルンプールはそういうところなんですよ。難解な映画に対して付き合ってくれるような土地柄じゃないんです。抽象的なものはダメ。正直、私自身、ああいう難解な映画を観てもよく分からないですよ。ただ、言おうとしていることについては非常に共感する部分がある。そこに込められたメッセージに関してはよく理解できるんです。

――KLEXを始めたのが2010年ですよね。続けてきて変化みたいなものは感じることはありますか。

 まあ、〈多少は変わりつつある〉と言いたいところなんですけど、それはもしかしたら自分たちへの慰めかもしれませんね。私たち自身、〈ああ、変わってきた〉と慰めながら続けてきたというか。ただ、もちろん努力もしてきましたし、プログラム自体大きく変わりました。内容も豊富になったと思いますよ。それでもオーディエンスはあまりいません。

――エクスペリメンタルな音楽をやってるミュージシャンは最近増えてますか?

 増えてはいます。ただ、若い人たちはパソコンやキーボードに頼った音楽ばかりですね。

――そういったミュージシャンが集まる場所はあるんでしょうか。

 チャイナタウンにファインダース(Findars)というギャラリーがあります。そこで実験的な音楽イヴェントや上映会が定期的に行われています。マレーシアは多民族の国なんですが、多少人種的な問題があるんですよ。たとえば、私は中国系ですが、こういう奇抜な音楽をいくらやってもマレーの方々はあまり見てくれない。それもマレーシアならではだと思いますね。できるだけインド系、マレー系の友人たちにも足を運んでもらえるよう声をかけているんですが。

――人種的な壁を音楽や芸術で越えていきたいという思いも、ヤンさんのなかにはあるんじゃないですか。

 ありますね。若い頃はロックをやってたわけですけど、その頃は民族など関係なくみんなでワイワイやっていました。でも、その後になってから一部の人たちが中国語で独立を訴えるロック・バンドを始めていて、民族的色彩を帯びたバンドが活動するようになったんです。個人的には彼らのメッセージにはあまり賛同しません。

――最後の質問です。今後の活動に対するヴィジョンなどありましたら教えてください。

 とにかく音楽をやる。やり続ける。それだけです。