カリフ8

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インタビュアー=須川善行+細田成嗣(2017年9月23日)

◯自己形成とヒップホップ

―― なぜ「Caliph8」(caliphate「カリフの統治領」という語に由来)という名前を名乗られることにしたんですか?

カリフ8 僕自身は、キリスト教のカトリックなんですけどね。「カリフ8」ということばには神学の授業で出会いました。1993年のことですね。ことばの意味そのものはどうでもよかったんです。意味ではなくて、そのことばが当時の僕の状況にぴったりくるような気がしたんです。そのときはまだ子供で15歳くらい、自分が形成されていく時期ですよね。すごく若かったけれど、かなり早い段階からアーティストになりたいと思っていたので、そういう時期にそのことばがしっくりきたんですね。
「カリフ8」というのはとても独特なことばで、95年からグラフィティをやるときや、絵を描くとき、ラップをやるときとかの名義としてこの名前を使い始めました。それからは僕がやること全部にその「カリフ8」という名前を使っています。

―― その自己を形成するころのお話を、少しくわしく聞かせてください。

カリフ8 1995年、17歳のときに、マニラの美大に入りましたが、実はその前に、87年~94年にアメリカのロサンゼルスに住んでいました。
 僕は、子供のころ、ギーク(おたく)だったんで、いろいろなアートや音楽を見たり聴いたりしまくっていました。95年の時点では、音楽の系譜を、自分なりに分析しようとしていました。たとえばドラムンベースやヒップホップなどがソウルやジャズとどんなつながりがあるのかを、自分なりに調べていたような時期にあたります。
 美大には1995~2000年にかけて通っていましたが、音楽の世界により深く入り込んでいきました。僕はポピュラーではない音楽に重点的に興味があって、かなり実験的なヒップホップをやっていて、ちょっと左翼的なヒップホップをやったり、フェスティバルを企画したり、プラットフォームを作ったりという活動をこの期間にはやっていました。
 僕はヒップホップをやっていたので、その中でさまざまな種類の音楽に興味をもって、サンプリングのためにレコードを集め始め、そこでとてもいろいろな作曲家を知ることになりました。たとえばハリー・パーチ、ジョン・ケージ、フィリピンのホセ・マセダ。それと同時に、ジェイムス・ブラウンとか、パブリック・エネミーなども。細野晴臣やYMOなどもいっしょに聴いていました。あとは民族音楽。ペルシャの民族音楽、中東の音楽、インドネシア音楽。ヒップホップのサンプリングのために、いろいろなジャンルのものを掘り下げていったわけで、ヒップホップはいわば物語の語り部のようなものなんですね。
 そうした活動を続けていくうちに、自分でも展示やいろいろな音楽の実験をやるようになり、そのときに自分のマントラのようなものとしてつけた言葉が「Conscious Postulate Chamber of Rudiments(基礎理性的前提会議)」です。これは少し硬い、「~省」とか「~機関」のような感じに響くことばですが、まあわざわざそういうふうにつけて、逆にバカバカしく見せるというイタズラっぽい狙いですね。

―― 学校で学んでたのはアートで、音楽を専門的に学ばれたわけではないんですか。

カリフ8 大学では音楽の授業はいっさいとりませんでした。でも87年にアメリカに渡る前に、6歳~10歳までの4年間、両親が僕をマニラの国立音楽院に入れていたことはあります。そこでいろいろな伝統的なクラシックの音楽をひととおり学びました。ピアノや音楽理論やソルフェージュ、民族音楽学......。それは、ナショナル・アーティストのDr. ラモン・P・サントスが子供のために作ったプロブラムでした。今はもう存在してないので、当時自分がそれをやれたのはラッキーなことでした。ただ、子供としては大嫌いでしたね(笑)。僕はドラムが好きで、ドラムをやりたかったんですが、母は僕をピアニストにさせたくて、ピアノの発表会なんかもやらされたんですが、僕は大嫌いで、卒業してからはいっさいそういうものにはふれていません。ヒップホップに走ったのは、その反動もあるかもしれませんね(笑)。
 美大時代の95年以降からマニラに至るまで、僕はカルチャーの世界でちょっと一目置かれる存在になっていました。ずっとそういう活動をしてきましたが、どこからもお金や公的な資金をもらうこともなくインディペンデントで、展覧会をやったり、プラットフォームを作る活動を95年から今に至るまで一貫してやってきています。同時に、インディペンデントでやりながらも、アートの中における自己認識とか、認識という行為そのものを、テーマとして持ちながらやっています。それをヒップホップだけではなく、アカデミックな言説の中でやろうとしています。ヒップホップは、すごく小さいシーンだったし、ちょっと軽んじられているというか、そんなに頭よくないんじゃない?という見られ方をアートの方からされることも往々にしてあるので、そういう状況を打破したかったし、自分たちのことを知らない学術的な世界の言説の中でも展開することで、ヒップホップのDNAを変化させていきたいと思っています。
 そういうプラットフォームは継続して発展させながら、自分はソロ・アーティストとしての活動もしていて、その二つを柱として現在は活動している状況です。たとえば、ソロ・アーティストとしては、サウンド・パフォーマンスもやるし、インスタレーションやヴィデオ・アートもやったり、ペインティングなどもやることがあって、表現方法では自分の活動を制限していません。自分のヴィジョンをどういうふうに表現するかというときに、自分の前にある媒体や表現方法の中から一番適した方法を選ぶというやり方ですね。

◯ヒップホップの可能性を広げる

―― そもそも最初にヒップホップにふれたきっかけは何だったんですか。アメリカにいらした時期に、周りにヒップホップが好きな悪い友達でもいたんでしょうか(笑)。

カリフ8 実はヒップホップに最初にふれたきっかけは、アメリカに行く前でした。80年代のフィリピンでも、ヒップホップはすでによく聴かれていて、僕が住んでいたのは、80年代当時、すでにDJがいっぱいいる地域だったんです。ニューウェイヴとか、エレクトロ、80'sヒップホップとかをかけていたDJの人たちがたくさんいました。うろうろしていると、音楽がいつもそこにあった。僕が9歳のころ、隣に17歳のかっこいいDJが住んでいました。いつも爆音で音楽をかけていて、かっこいいなって窓から覗いていると、彼が家に招き入れてくれて、DJのやり方やいろんなことを教えてくれました。それがヒップホップの原体験みたいなものとして、僕の中に強く残っています。僕は87年にアメリカに行きましたが、L.A.では、いわゆるギャングスタラップみたいなものはあっても、そのやり方は僕はあまり好きじゃなくて、むしろ意識とか認識とかをめぐる、アブストラクトなヒップホップが好みでした。

―― そんなにフィリピンでヒップホップが流行っていたとは思わなかったので、ちょっとびっくりしました。その中でもカリフ8さんがやっているのは、アブストラクトなヒップホップとおっしゃってましたね。

カリフ8 今やってることは、マイナーなやり方であることは間違いないですね(笑)。僕はサンプリングを非常に重要な技法として使っていて、その中で実験的なことをやっています。さっきレコードを膨大に集めているという話をしましたが、そういう中からサンプルをたくさん集めて、要素を抽出して、それを掛け合わせて、新しい音、新しい組み合わせを作りだしています。その一方で、僕はそれぞれのジャンルを理解することに時間をかけています。もちろん勉強といっても自己流ですが、たとえばジャズならジャズというジャンルの中のテクニックを、自分なりのやり方で分析し、僕のプロデューサー、サウンドメイカーとしての感受性に応用しようとしています。
 たとえば、ドラムのフレーズをループさせるかわりに、僕はドラムの「ドン」という音ひとつだけを抽出して、ドラムマシンに取り込んで、自分なりの表現にします。ドラムを練習するかわりに、一音ごとに自分でつなげていったり、さらに抽出した音ももっと小さく、たとえば1秒の音をもっと短いものに切り分けて、それをまたつなげて、新しい音を出すということもやっています。そういうミリ秒単位の音や要素を使いながら、手を叩く音やドラムの音をシンセサイザーのような音に作りかえたりしています。

―― 20代のころはアフロヘアでふつうのヒップホップでラップをしていたという話も聞きましたが、そこから実験的な音楽に足を踏み入れたきっかけは何だったんですか。

カリフ8 実際は、最初から左翼的なヒップホップをやっていたんですよ。そのころは、アンダーグラウンドなヒップホップにしてはまともに見えたかもしれないね、ビートがあったから。でも、同時に実験的な作品も作っていたんです。サンプリングだとか、プロダクション・テクニックの音や方法や、実験音楽や前衛的な作曲法に特徴的な形式にもふれていましたから。自然にそうなってきたんですよ。90年代のアフロ時代には、もう自分の中ではこれをやっていくつもりでもいたし、サンプリングという技法を、単に静止している過去のひとつのある場面を切り取ったものとしてではなく、創造のための媒体として捉えていました。

◯AMFでヒップホップを演奏する

―― 今回のAMFのツアーのセッションでは、スタイルが全然違う人とフリーなインプロヴィゼーションをやらなければなりませんが、カリフ8さんはそういう経験もかなりお持ちだったんでしょうか。

カリフ8 いっしょに違うジャンルの人たちとやったことがあるかという質問であれば、そうです。僕が育った80年代のマニラ時代には、ヒップホップだけじゃなくて、いろんなジャンルの音楽にふれていました。たとえば、フィリピンでのパンクのパイオニアのような人たちとは、80年代当時からとてもよい友達です。たぶん自分より15歳くらい上ですけど(笑)。自分もパンクを愛してるし、彼らもヒップホップを愛してた。シューゲイザーの人たちもいたし、インダストリアル・ミュージック、アヴァンギャルド、フリージャズのシーンも小さいながらもマニラにありました。そういうさまざまなジャンルのさわりの部分みたいなものにはマニラ時代から通じていて、その後は自分でそれらひとつひとつを深めて、サンプラーで自由に使っていくようになったわけですね。

―― ヒップホップというスタイルのインプロヴィゼーションについてはいかがですか。

カリフ8 ヒップホップならヒップホップならではの感性というものがあります。日本人がイタリア料理を作ることを例にとって考えるとわかりやすいかもしれません。皆さんは日本人としての感性や、日本人らしさみたいなものをお持ちでしょうが、イタリア料理を作っていけないわけではないし、イタリア料理の修行をして、すごく上手になることもできるわけですよね。それと同じで、僕はヒップホップの熱狂的なファンなので、別のジャンルの音楽に取り組むときも、ヒップホップの感性を通して取り組みます。たとえばドラムキットを使ってフリージャズを習うとしても、やはりヒップホップの感性が、新しい組み合わせを生み出したり、新しい知識を得る手助けになるでしょう。
 ヒップホップが面白いのは、自然に別の音楽を聴く手助けをしてくれるところです。サンプリングという媒体は、社会との繋がりを求めます。つまり、他のジャンルの音楽と、先入観抜きで出会わせてくれるのです、たとえばクラシックからフランク・ザッパ、インドネシアのガムラン音楽に至るまで。ヒップホップの熱狂的ファンだったら、どんな音でも興味をもちます、ジョン・ケージであろうとサン・ラーであろうと。そして、ほかのジャンルにふれるということが、新しい感性や新しい好み、新しい音楽の形式を組織してくれるのです。

―― カリフ8さんがこのツアーで使ってきた手法は、主に以下の3つという認識でよろしいでしょうか。1)ドラムパッドをMPCにつないで、パッドを叩いてサンプリングした音を出す。2)コンタクトマイクから音を拾って、それを加工して出す。3)カセットテープで自分の演奏の音の速さを変化させて出す。

カリフ8 そうですね。自分のパフォーマンスのメインに据えているのは、MPCです。サンプリングを中心に、ツール的なものを組み合わせています。たとえばコンタクトマイクや、プリペアドした楽器、おもちゃの楽器を使うこともあれば、音響彫刻とかインスタレーションみたいなことをやることもあるし、フランケンシュタインみたいなターンテーブルを作ることもあります。これは、部品が壊れたターンテーブルを集めてきて、それを改造して自分流のマシンに仕立てたものです。また、シンセサイザーを録音したカセットテープを、ライヴで超低速で再生してアンビエントなテクスチュアとして流したり、それをフィードバックした音とミキサーで混ぜ合わせて、飽和した音を出します。それが僕の場合のノイズの演奏ですね。僕はいろいろなテクニックに興味があって、その場その場で使うものを選びます。
 京丹後でのライヴは面白かったですね。会場の小学校で、ミキサーとエフェクターとコンタクトマイクとその小学校で見つけたものだけを使って演奏しました。食器棚を見つけたので、ほうきとか歯ブラシのような硬い毛のついたブラシを使って音を出して、それをコンタクトマイクで拾ってミキサーで調整したもので音楽を作りました。
サンプリング以外にも僕はいろいろなものに興味があって、いろいろなものを自分なりに組み合わせて音楽を作っています。