即興、協働、片言 - アジアン・ミュージック・ネットワークとAMFを振り返って dj sniff 

即興、協働、片言 - アジアン・ミュージック・ネットワークとAMFを振り返って

dj sniff ( 水田拓郎)

 三部門に分かれて壮大なスケールで展開するアンサンブルズ・アジアの中でアジアン・ミュージック・ネットワークはとても単純な目標を持って活動している。それはアジアン・ミーティング・フェスティバル(以下AMF)を成功させるというものだ。もちろんそこには集客数を増やすことや一般的な認知度を上げること、アジア地域から国、世代、性別に偏りのないキュレーションをすること、音楽のショーケースとして高いクオリティーを目指すことなど様々なチェックボックスがある。しかし最も重要な核心部分はフェスが終わってからも自律的に引き継がれるようなアーティスト間の協働の場を用意できたかどうかということだと僕は考える。
 本プロジェクトを担う大友良英、ユエン・チーワイ、dj sniffの三人をつなぐのは欧州や北米を中心に発展をしてきたフリーインプロビゼーションという音楽とそのコミュニティーの中で培ってきたそれぞれの経験である。フリーインプロは誰にでもオープンで、ステージに立てば言葉も文化も違う人たちと演奏を介してわかりあえる。と言えば聞こえはいいかもしれないが、実際はそれぞれ独自の音楽言語と修練を重ねた個人のエゴがせめぎ合い、その時々の状況と交渉しながらベストだと思うものを形成してゆく、極めて際どい音楽的な実践である。デリック・ベイリーはこの音楽を「語ると何かが失われてしまうような」、「最も根源的な音楽的創造」と呼び、この文章を書いている時に訃報が届いたオランダの即興ピアニスト、ミシャ・メンゲレベルグは自分たちを「インスタント・コンポーザーズ(即席作曲家)」と名付けた。同様にコーネリアス・カーデューのスクラッチ・オーケストラやジョン・ゾーンのコブラ、そして大友氏が2005年から始めたAMFも、この音楽の中に鋭い批評性や政治的な姿勢を見出し、演奏する場がただのコンサートで終わるのではなく、何か新しいものが生まれるためのカタリストともなるように仕組んでいった。
 トロンボーン奏者で即興音楽の学術研究を推し進めてきたジョージ・ルイスが基調講演の初めに「ネットワークとは何か?」と質問して会場からいくつかの意見をもらった後に「実は私はネットワークが何なのかさっぱりわからない」と言ったのをよく覚えている。山本佳奈子さんが危惧するように様々な国際交流プログラムで「ネットワーク」という言葉が乱用されている注1。特に経済力の強い国からやって来て無自覚にこのキーワードを振り回すことはある種のソフトパワーだと見なされてもおかしくない。こういった問題には敏感だと思っていた僕も昨年12月にシンガポールで開催したAMF x PF期間中に気づかされることがあった。以前にジョグジャカルタの音楽家集団、ジョグジャ・ノイズ・ボミングについて「独特な環境でライブ活動をするけれども、その録音物だけを聴くとどこの音楽かわからない。彼ら自身もまだインド(ネシア)・ノイズと呼ばれるような自分たち独自の音に到達していないと言う」と論文に書いた 注2。その話をアメリカから観に来ていた『Japanoise』の著者、デビッド・ノヴァック氏にしたら「でもそのアイデンティーを求めているのは誰なの?」と逆に問われ、ハッとした。自分は国際交流プロジェクトのキュレーターとして万国旗のようなものを提示したくて彼らにこういう質問をぶつけていたのではないだろうかということ。つまりそれは彼らの問題意識ではなく僕自身が抱いているローカル・カルチャーとそのネットワークのイメージの投射であり、またそのナラティブに彼らを合わせようと緩やかに力を行使していたのではないだろうか。若尾裕さんが指摘するように西洋由来のエキゾティズムの内在化は想像以上に根深いのかもしれない 注3。
 大友氏もチーワイも僕も自分たちがオーガナイズしたコンサートには必ず自らも演奏者として参加をする。そこには様々な理由があるのだが、少なくとも僕は毎度何でこんなに疲れることをするのだろうと思う。特に2016年2月8日にスパイラルで行われたAMF3日目の公演はこれまでの人生で3本の指に入るぐらいのストレスフルな1日だった。参加アーティストの中でも大きな舞台で初めて集団即興に参加する台北のskip skip ben benは緊張で前の晩は眠れなかったらしいし、スコットランドのギグから飛行機を乗り継いで早朝に着いたオッキョン・リーは初対面の共演者と独特のステージングの中で何とか自分の音を見つけようと開始前から表情が険しかった。七尾旅人に至っては前日の雪山でのライブから直行、片腕骨折と高熱という満身創痍の状態で開場一時間前に到着した。そんな危ういバランスの中で全員が音楽的選択を迫られショーマンシップを発揮した結果を能町みねこさんは「むちゃくちゃで気持ちいいこと」と評し、続けて「呪術のようでもあって、村祭りのようでも」あると書いてくれた 注4。そして大石始さんは折り重なる音の中で匿名性と個性が揺れ動く様を盆踊りのダイナミズムと比較した 注5。
 香港で学生たちを教え始めて間もない頃、音楽や執筆を続けながら長年ロンドンの大学で教えているデヴィッド・トュープ氏に「技術を身につけて就職したい学生たちにどうしたら即興音楽や実験音楽に興味を持ってもらえるだろうか」と質問したことがある。彼は「確かにお客さんも少ないし、お金にもならないけど、これまで就いたどの仕事よりもこれが一番自分に充実感を与えてくれる。それに一生続けられるものだから、結構いい人生のチョイスじゃないかな」と答えてくれた。2016年2月11日の元・立誠小学校でのAMF5日目の公演ではこの時間がいつまでも続いてくれたらと思えるような、これまでの人生で3本の指に入るぐらいの幸せな気分に僕は包まれた。これを体験してしまったら次もその次も懲りずにオーガナイズと演奏を混ぜながら続けいくことになるだろう。
 大友氏が先導してきたアンサンブルズ・アジアは、僕らが即興音楽を通じて体験してきた言葉や文化を超えた交流や開かれたコラボレーションの仕方を一つの価値観として社会に浸透させてゆくためのプロジェクトであるように思える。またアジア地域で活動してわかったのは、僕らがナショナリティー、伝統文化、実験音楽、即興性、ネットワークなどのキーワードを使って音楽家たちに接することはある種の楽譜を持っていくことと同じであるということだ。そしてそれらのコミュニケーション・ツールがスムーズに機能する状況は細馬宏通さんが言うような即興音楽が長い歴史の中で纏い出してきたイディオムを繰り返すだけで、音楽としては全然面白くない 注6。むしろ片言であるがゆえにすれ違い、境界までギリギリに引き伸ばされ、意味もひっくり返されてしまうような所に新しい音楽の可能性を感じる。そんな未然の状態をいかに参加者全員でショーケースとして昇華できるかがAMFの醍醐味であると実感している。
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注1: 山本佳奈子「Asian Meeting Festivalの価値、ネットワークの実体」
http://asianmusic-network.com/archive/2016/12/asian-meeting-festival-with-playfreely.html
注2:Lippit, T.M. (2016) 'Ensembles Asia: Mapping experimental practices in music
in Asia' , Organised Sound, 21(1), pp. 72‒82.
注3:若尾裕「ノイズ・グローバリゼーションはアジア音楽にとって順風となる」
http://asianmusic-network.com/archive/2016/07/asian-meeting-festival-2016-4thday-in-kobe.html
注4:能町みね子「むちゃくちゃで気持ちいいこと」
http://asianmusic-network.com/archive/2016/07/asian-meeting-festival-2016-2ndday-in-tokyo-1.html
注5:大石始「「輪」であること」
http://asianmusic-network.com/archive/2016/07/asian-meeting-festival-2016-3rdday-in-tokyo.html
注6:細馬宏通「新しい即興はいかにして可能か」
http://asianmusic-network.com/archive/2016/07/asian-meeting-festival-2016-6thday-in-kyoto.html