聴くことと演奏することAsian Meeting FestivalがArt Camp Tangoに遊びに来た記録
中川克志(横浜国立大学・音響文化論)
はじめ
2017年9月16日から18日に、Asian Meeting Festival(以下、AMF)の一行は、福岡公演と京都公演の間に京都府京丹後市網野町に立ち寄った。網野町在住の世界的に有名なサウンド・アーティスト鈴木昭男さんの点音(おとだて)ツアーに参加するためだ。点音ツアーとは、昭男さんが見つけたリスニングポイントに行って、そこで耳を済ませるツアーである。今回の点音ツアーは「あきにゃんの丹後聖地めぐり ACT×AMF2017」と題されていた。「あきにゃん」とは昭男さんのことだ。
これは、ちょうどその9月にArt Camp Tango(以下、ACT)が行っていた「ART CAMP TANGO 2017 音のある芸術祭」の企画のひとつで、昭男さんが、AMFのツアー一行(音楽家とその裏方たち)やその他関係者数名を点音ツアーに連れて行き、夜はのんびりと温泉に浸かってもらう、というクローズドなイベントだった。
ACTとは、2013年に、昭男さん、ダンサーの宮北裕美、ギタリストの山﨑昭典といった丹後在住のアーティストが中心となり立ち上げた団体だ。音にまつわる芸術表現を主軸に、サウンド・アート、現代美術、音楽、ダンスなどの領域を横断し活躍するアーティストを丹後に招聘し、展覧会やコンサートやパフォーマンスを企画してきた。「Art Camp Tango2017/音のある芸術祭」では、2016年のAMFにも参加したフィオナ・リー(香港)や大城真(日本)らが丹後で滞在制作し、また、会期中(2017年9月9-24日)には他にも多くのアーティスト参加して色々なイベントが行われた。詳細はACTのウェブサイト(http://www.artcamptango.jp)を参照して欲しい。
AMF一行は16日の夕方に丹後に到着し、17日と18日には点音ツアーを行い、岬、山、浜、トンネルの四ヶ所を訪れた。その成果報告として、旧郷小学校でフィードバック・プレゼンテーションと簡単なギグを行った後、19日には京都市内に戻って京都メトロでライブを行った。僕はACTからそのフィードバック・プレゼンテーションの司会を依頼され、16日に京都駅からAMFに同行し、丹後の点音ツアーと温泉と毎晩の宴会を堪能し、京都メトロのライブを見て打ち上げまで参加した。
僕にとっては仕事と呼ぶには楽しいだけの三泊四日だったので、せめて、記録を残すことで何らかの役に立っておきたい。聴く行為としてのサウンド・アートの創始者ともいえる鈴木昭男と、近年最も面白い枠組みで即興演奏を行なってきたAMFとの邂逅の記録である。聴く人と演奏する人たちとはどのように出会い、交流したのか。
16日
昼過ぎに京都駅裏八条口あたりについたAMF一行は、温泉宿「宇川温泉 よし野の里」のバスで網野町まで移動した。点音ツアーは明日からなので、その日はみんなで焼肉を堪能した。宴会の席上で昭男さんから「僕は病院に行くのが嫌いなんだ」という話を聞き、さらに「(病院に行かなかったので)体調が悪くなって死にそうになった時に、夢うつつのなかで、何だか分からない山の上の鐘のある館にたどり着いて、そこでそれまで聴いこともなかったようなスゴく素晴らしい音を聴いた、そして、お友だちの吉村弘さんに教えてあげなくちゃと思った」という話を聞いた。僕は、この人は今までの人生で聴くことをひたすら追求してきたんだな、スゴイな、と思った。
17日:岬:丹後町経ヶ岬下の「柱状節理」
まず、僕らは屏風岩海岸の経ヶ岬に向かった。昭男さん作成のリーフレットにはこうある。「1898年の灯台建設時に、この石が使われた。京都百景の景勝地。過去に二度ほど、ここでの演奏を録音録画している。ウニの味を知り群れなす野猿に注意」。台風が近づいてきていたからか、幸い野猿には遭遇しなかった。
経ヶ岬の灯台は観光名所のようだが、僕らの目的地は経ヶ岬下の岩場の崖だった。灯台と崖下との分かれ道当たりでバスを降り、山道を歩き、山をひとつ登って降りたあたりだった。1941年生まれということは2017年には76歳のはずの昭男さんが一番の健脚で、僕らを置き去りにスタスタ山道を登っていったことに驚いた。何分くらい歩いたのか分からないけれど(体感では一時間くらい歩いたようにも感じたがそんなに長くはなかったと思う)、山道を長時間歩いた後に、突然ポッカリと空と海に向かって開けた空間が出現した。そこから崖下に降りられる道があり、僕らは目的地にたどり着いた。
そこはゴツゴツした岩場で、岩の多くが多角形の柱のような形になっていた。丹後町のウェブサイトによれば、経ヶ岬は、遠くから見ると「玄武岩が崖状になって岐立しており経本のように見えるので、船人達がここを通る時、安全を祈り、お経を唱えながら通ったのでこの名がついたともいわれてい」るらしい(http://www.pref.kyoto.jp/tango/tango-doboku/miryoku_kyougamisaki.html)。多角形の柱状の岩場そのものは人工物ではなく自然の造形で、柱状節理(ちゅうじょうせつり、columnar joint)というらしい。
海から岩の間を吹き抜ける風の音と、崖にぶち当たる海の音が聴こえた。風の音は狭い空間内で四方八方に空気がぶち当たる閉鎖的な音にも感じられたし、視界の遮られた山道の後なので、海と空に向かって風が移動していく開放的な音にも感じられた。AMFの音楽家たちは思い思いの場所に座り、しばらく海と空の音に耳を傾けた後、昭男さんが話をする時にはその周辺に集まった。2017年12月のThe Wire誌(issue 406)(https://www.thewire.co.uk/issues/406)に掲載されたのは、ツアーに同行していた音楽人類学者David Novakが撮影したその時の写真である。
ちなみに、僕はこの場所で、あまりに疲れていたので、ぼうふら(a mosquito larva)を見て「タツノオトシゴ(a sea horse)だ!」と叫んだことで、Sea Horse PhDという称号をいただくとともに日本の博士号の価値を低下させてしまった。日本の博士号保持者に対して申し訳ない。
17日:山:峰山町の磯砂山(いさなごさん)の「女池(めいけ)」
次に向かったのは、丹後の羽衣伝説の発祥の地である磯砂山の女池だ。羽衣伝説とは、天女が池で水浴びをしていた様子を覗き見た男が、その美しさに心を奪われ、天女を天に帰すまいとして羽衣を隠してしまい、天女は天に帰れなくなった、というあの伝説である。昭男さん作成のリーフレットにはこうある。「昔、天女が舞い降りて水浴びをしたという「羽衣伝説」の池。2002年、京都の画廊での個展のために女池にて録音をした際、丹後町後ヶ浜(のちがはま)の小石を神聖な池に投げ入れた。今は時効ではあろうが、将来池ざらえがされる時には、是非参加しようと思っている」。
僕らは羽衣茶屋という場所までバスで行き、そこからはまた、今回もやはり健脚の昭男さんに先導されて、山道を歩いた。女池は、山の頂上付近のちょっとした凹みのような場所にあった。ここ数十年かけて水量が減り続けているらしく、池というよりも沼地、あるいはただの水溜りで、水量は、せいぜい深度50cmで直径10m程度だった。
なので、初めは池の音よりも、落ち葉を踏みしめる音だとか鳥の鳴き声などのほうがよく聴こえていたのだが、昭男さんが、羽衣伝説の話や、伝説の背後にある意味――天女とは、農作業技術などを人間に伝えた存在の擬人化だろう云々――などについて話すのを聞いているうちに、磯砂山のこの女池を中心として、農業技術が丹後町一体にかけて伝播していった、というビジョンが僕の頭のなかに浮かんできた。だとすれば、昭男さんがこの池に投げ入れた小石は、山の外にまで放射状にその音を響かせたのではないか。勝手な妄想ではあるが、僕はそういう聴き方をした。AMFの音楽家たちがどのようにこの場所を聴いたのかは分からない。
宿に戻る途中、小野甚味噌醤油醸造(http://shop.kyotodays.jp/fs/kyotoseikatsu/c/114/)に立ち寄った。台風が網野町を直撃しそうだというニュースが入ってきた。その後、スーパーに寄ってその日の飲み会のための酒と肴を購入する頃には、かなり強い雨風となっていた。
17日:夜:カニすき
この日の夕食はカニすきだった。台風が激しくなってきたため、昭男さんと裕美さんはすぐに帰宅した。後から考えるとこれは賢明な判断だった。結局、この日の夜に台風18号が近畿地方を直撃し、網野町全域が浸水したので、もう少し遅くまで温泉宿に留まっていれば、二人は網野町の自宅まで戻れなくなっていたところだった。
このカニすきの最中にとても音楽的な瞬間があった。それは、夕食が始まり一時間くらいたった20時頃、台風も激しくなってきた時だった。宴会場が突然停電したのだ。宿の方はすぐに懐中電灯で灯りを準備してくれたのだが、音楽家たちは誰一人騒がず、カニすきを食べ続けていた。僕は感心した。さすが即興演奏に慣れた音楽家だ。あらゆる状況に動じずに自分のすべきことを行う。異国で突然停電に遭遇したのに彼らは、落ち着いて目前のカニすきに集中し、あるいは隣席との会話を続けていた。それはまさに、臨機応変に共演者とインタープレイする即興演奏家の振る舞いを、楽器を持たないときにも継続しているかのようだった。
18日:浜:丹後町竹野(たかの)漁村の「バクチバ」
翌朝、台風は去っていた。朝食を取った後、宿のベンチに座りながら、ハノイから来たトゥイが、ハノイは小さな街だからどこにいても必ず何かの音がするので、この丹後町のような静かな場所はない、と言っていたのが印象的だった。国によってサウンドスケープは異なるのだから、その土地特有の音の名所に連れて行ってもらえる昭男さんの点音ツアーはさぞ面白かろう。そんなことを思いながらトゥイと話すうちに、僕は、AMFの音楽家たちが丹後町に来た理由を教えてもらっていないことを知り驚いた。AMFの音楽家たちは、なぜ丹後に来たのか知らないまま、点音ツアーを楽しんでいたのだった。
宿は少し高い丘陵にあったので何の問題もなかったが、近くの民家は海沿いにあり海抜も低かったので、床上浸水したらしく、また、近くの道路の一部は陥没していた。宿やバスから見える海の一部は茶色に変色していたが、空は晴れており、二日目も点音ツアーを行うことになった。
午前中に向かったのは、丹後町竹野漁村の「バクチバ」という場所だった。昭男さん作成のリーフレットにはこうある。「浜の崖裏にある巨大な岩窟。名のとおり昔は、シークレットな場所であったとか。冬季、岩窟に鳴り響く荒波の音は、笛などの就業にうってつけの練習場となる。テレビ局の取材に、何度も応じた所でもある」。昭男さんの話によれば、ここはかつて違法な博打場として使われていたらしく、また、洞窟の内部は光線の反射の加減で美しい青色で彩られるらしい。
通常の天候ならばさほど問題なく洞窟に行けたはずだが、台風の翌日だったこともあり、また、満潮の時間が近づきつつあったため、洞窟までの崖の道が波で塞がれて、結局、僕らは洞窟までは行けなかった。ムジカ・テトとアリスと僕は洞窟の近くまで行ったのだが、洞窟を見つけられずに浜に戻らざるを得なかった。崖を少し進むとすぐに、岩に波がぶつかる音しか聞こえなくなり楽しかったが、もう少し満潮が進むと浜には戻れなくなっていただろう。僕らが崖の奥の方に進んでいた間に他のみんなは崖の途中で波に襲われたらしく、浜に戻ると、何人かはびしょ濡れになっていた。そのため僕らは一度宿に戻らなければいけなかった。
18日:トンネル:丹後町の「新間人(たいざ)トンネル」
次に向かったのはトンネルだった。観光地でも何でもない、丹後中学校と間人温泉炭平との間にある全長1kmほどの普通のトンネルだ。昭男さん作成のリーフレットにはこうある。「長いS字状のトンネル内で、2000年にベルリンのDAADギャラリー個展"tubridge"のインスタレーションの音源のために、五つのバケツの水を撒きわだちの音を強調させて録音した」。確かに、一直線ではなくS字状になっていることはこのトンネルの特徴のひとつだが、そんなトンネルは世界中にいくらでもある。ここは徹頭徹尾、普通のトンネルだった。
しかし、このトンネルでの聴取経験が圧倒的だった。
僕らは、トンネルの中に100mほど入り、S字状なので向こうの入り口が見えないトンネルの中で、車が何台か通行する音を聞いただけだ。数台の車がトンネルにやって来て、20人ほどの歩行者がいることに少し驚いて車の速度を緩めて、しかし特に問題はなさそうだと判断して再び速度を上げて通り過ぎていった。ドップラー効果を伴う車のエンジン音、タイヤと地面との接触音、それらの反射音。小さな音がやってきて、大きな音になり、そして通り過ぎて聴こえなくなった。そんな風に音が生じては消えていくのは、とてつもない強度で僕たちを圧倒するドラマティックな出来事だった。
昭男さんはこのトンネルに水を撒き、車輪が道路に接するわだちの音を録音したわけだ。ここでも「なげかけとたどり(throwing and following)」という昭男さんの基本的な制作理念は一貫していたといえよう。何らかの状況の中に何かを「なげかけ」、そこから生じる変化を観察する、つまり「たどり」を行う、という制作理念だ。昭男さんの活動の基盤には、「聴く」ことに対する飽くなき欲望がある。昭男さんが、聴く行為としてのサウンド・アートの創始者である所以である。僕たちはこのトンネルで聴こえてきた音に対して「たどり」を行ったわけだ。
この聴取経験に一番敏感に反応したのは、楽器無しでヴォイス・パフォーマンスを行うアリスだった。他の音楽家や昭男さんと何の話し合いや打ち合わせも無いままに、アリスは多種多彩な音色で卓越したヴォイス・パフォーマンスを披露し始めた。自分の声の反射音がトンネル内での位置や顔の方向によって異なることを確かめつつ歩いていたアリスは、昭男さんが1960年代に行っていたという、様々な場所で反響音を計測することで「なげかけ」と「たどり」を繰り返す「自修イベント(Self-Study Event)」を、そうとは知らずに再現していたかのようだった。また、この場所に感銘を受けたらしく、トゥイは、今度自国から人を連れてくるから点音ツアーをやってもらいたい、と昭男さんに依頼していた。
18日:フィードバック・プレゼンテーション@旧郷小学校
その後、旧郷小学校で、フィードバック・プレゼンテーションと、最初は演る予定はなかったが、数名の音楽家による簡単なギグが行われた。
フィードバック・プレゼンテーションでは、ACTとAMFがどのような活動をしており、なぜ今回のようなプロジェクトが企画されたのかが説明された。ここで初めてこの企画の意図が音楽家本人に対しても説明された。
ACTにとっては、これは、ACTが設立されたそもそもの企図のひとつである、丹後にアーティストを招聘してアート・プロジェクトを行うというプロジェクトの一種だった。いわば(三泊四日だけの)アーティスト・イン・レジデンスだったわけだ。また、今回AMFを招聘したのは、ACTとAMFのスタッフが以前から知り合いだったから、というのも理由のひとつだったようだ。
また、AMFにとっては、アジア諸国からやってきた音楽家相互の親交を深めたり、ツアー中の疲れをリフレッシュしたりするための仕掛けだった。そもそもはツアーをやるつもりで、dj sniffとチーワイと事務局の田村さんは一度下見に来たらしい。しかし、網野町で集団即興演奏あるいはフリー・ミュージックのギグを行うのは難しいという判断になり、そこで、ACTのアーティスト・イン・レジデンス推進という理念にのっかり、今回のような形態でクローズドな点音ツアーを行ってもらうことになった、とのことであった。
僕はこのフィードバック・プレゼンテーションの司会を務めたのだが、登壇者であるdj sniffとチーワイと裕美さんに大いに助けられた。僕がやったことで覚えているのは、昭男さんに、点音ツアーに音楽家たちを連れて行くというのはどんな気分なのかを聴いてみたことくらいだ。昭男さんからは、それはまるで恋人を自分の好きな場所に連れて行くみたいな気持ちでした、という回答を得た。昭男さんはキュートなところがある。
その後、機材の関係もあり全員は参加できなかったが、数名によるギグが行われた。実は僕は、この時初めてAMFの音楽家たちの演奏を聴いた。面白かった。まず、トゥイがひとりで琴を演奏した。琴を縦に抱え、フォークなどを挿してプリペアして、自作曲の一部を演奏した。次にトゥイとカホが廊下で即興演奏した。笛の名手のカホは、廊下に石を置いて、その石を踏みしめる動作と音も活用し、トゥイとの間で驚異的に精度の高いインタープレイを繰り広げた。Caliph8は、校内で見つけてきた色々なものを組み立てて自分専用の音響制作装置を作り上げ、コンタクトマイクとミキサーだけを使って、ドラム音を生成し、そのドラム音からリズムパターンを作り出していた。縦横高さそれぞれ50cm程度の大きさに組み立てられた装置を使うCaliph8の演奏は、科学の実験のようにも見えた。そしてC. Spencer Yeh(バイオリン、声)とチーワイ(アルミトレイと弓、声)とアリス(声)が、小川智彦作品の展示されている理科室で即興演奏した。三者三様の高音ボイスと、Spencerのバイオリンとチーワイのアルミトレイとアリスの低音ボイスが絡み合うインプロヴィゼーションは、幻惑的だった。
最後に、小学校での展示時間の終わりに、昭男さんが三原聡一郎《空気の研究(Study of Air)》の展示されている部屋で、アナラポスの演奏を行った。旧郷小学校の時計台周辺の風流を室内に再現してビニール袋を舞わせるこのエピファニックな作品とともに、昭男さんは何に耳を傾けながら、アナラポスから音を発していたのだろう。
以上、AMFがACTを訪れ、ACTがAMFを歓待した記録である。
まとめ
丹後での経験がAMFの演奏にどのように反映したのかは、外からはよく分からない。とはいえ、AMFという「演奏する人たち」にとって、昭男さんという「聴く人」と交流したことは刺激的だったんじゃないかと思う。演奏するために聴く、演奏することには聴くことが含まれている、聴くことは演奏することでもある、そういったことを強く感じる機会になったんじゃないだろうか。想像だけど。
僕は、集団即興演奏の醍醐味は、ヴォキャブラリーを共有していない音楽家たちがヴォキャブラリーを共有しないままに一緒に何かを生み出そうとその場で頑張り、その結果、それまで聴いたことのなかったような音が生み出されることだと思う。初対面の外国人同士が、互いの国籍や文化をあまり気にせず、その場でできる限り最大限に生産的な会話をしようとしている、といった情景に似ているんじゃないかと思う。AMFの演奏を見ると、僕はいつも、彼ら彼女らが、見知らぬ他人とコミュニケーションしようとすることそのものに汲み尽くせない面白さがあることを示してくれているように思われて、感動するのである。
コミュニケーションするためには、自分が何か話すだけでなく、人の話にもしっかり耳を傾けないといけない。そう考えると、丹後で聴くひとと時間を過ごしたことは、演奏するひとたちにとって、コミュニケーションを円滑化するための調整作業としてとても役立ったんじゃないだろうか。そんなことを思った。
ところで、では、ACTにとってAMFとは何だったのだろう。ACTの存立意義のひとつであるアーティスト・イン・レジデンス推進という意図に即したものだったので、意義あることだったことは確かだが、どのように意義あることだったのか、具体的なことは外部の僕には分からない。
そこで、最後にひとつエピソードを紹介することで、この長い記録を終えることとしたい。
The Wire誌にAMFの紹介記事も掲載され、冬もいよいよ深まってきた2017年11月のことだ。30周年記念を目前に、昭男さんの《日向ぼっこの空間(A Place in the Sun)》が取り壊されたというニュースが届けられた(参照:The Wire誌のウェブサイトの2017年11月23日のニュース"Akio Suzuki's Space In The Sun has been demolished"より)(https://www.thewire.co.uk/news/49047/akio-suzuki-s-space-in-the-sun-has-been-demolished)。《日向ぼっこの空間》とは1988年に昭男さんが行ったオーディエンスのいないパフォーマンス(を行った場所)である。昭男さんは、ある時、一日中山の中で耳を澄ましていたいと思いつき、一年の準備期間をかけて、レンガを焼いて山頂に運び、自分が耳を澄ませるための床と壁を作り上げ、ある日、朝から晩まで一日中網野の山中の音を聴いたという。そのレンガの空間が《日向ぼっこの空間》なのだが、最近、周辺で放牧されていた牛が、崩壊しつつあった《日向ぼっこの空間》のくぼみに足を取られて死ぬという事故が起きたため、怒った牛の管理人が《日向ぼっこの空間》を取り壊してしまったらしい。その是非はともあれ、聴く行為としてのサウンド・アートの代表的作品(の痕跡)が取り壊されてしまったことは、昭男さんにとってもかなり悲しいことで、しばらく力を落としていたようだ。
が、しかし、である。
12月に昭男さんに会ってこの事件について少し話した時だ。昭男さんは「錨が解けたようだ」と述べて、別の土地に引越しするのも良いかもしれない、ということを僕に言ったのだった。僕は昭男さんの前向きな気持ちに驚いた。昭男さんがどの程度本気なのかは分からないが、僕は、これが老いてなお盛んというやつか、まだまだ前進し続けるつもりなんだな、と感心した。つまり、僕はこう思った。AMFがACTに何をもたらしたのかは分からないが、うかうかしていると、AMFやAMFに参加した音楽家たちはACTや昭男さんに置いてけぼりをくらうことだろう、その時ACTは必ずしも丹後の団体ではなくなっているかもしれないけれど。
とりあえず今後のAMFとACTの活動を楽しみに待つことにしよう。そう思った。
中川克志(なかがわ・かつし)
1975年生まれ。現在、横浜国立大学大学院都市イノベーション研究院准教授。専門は音響文化論(サウンド・アート研究と音響メディア論)。論文書いたり授業したりしている。京都で勉強して博士(文学)を取得。京都時代にはコアファイコ周辺(?)でOKミュージックボールに参加(タイコ担当)。最近は日本とアジアにおけるサウンド・アートの系譜を研究している。
https://sites.google.com/site/audibleculture/