オーレン・アンバーチ

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インタビュアー=須川善行+細田成嗣(2017年9月23日)

◯アジア/日本への関心

―― 私たちはこれまでアジアン・ミーティング・フェスティバルに参加したミュージシャンにインタビューをしていますが、アジア以外の国から来た方はあなたが初めてです。このフェスティバルに参加することになったいきさつを教えていただけますか?

アンバーチ 僕はアジア人ではないので、正直いって今回自分が招待を受けたときは驚きました。とはいえ、僕は日本にはよく訪れていて、日本のことが好きですし、1993年の初来日以降も毎年必ず来ています。今年もすでに4回訪れており、12月にもまた訪れる予定なので、個人的には日本との深い繋がりを感じています。また、僕の母親はインド生まれなので、その意味ではアジアとの繋がりもないことはないと思いましたが......それにしても驚きましたね。
 もともと僕のバックグラウンドはインプロヴィゼーションとフリージャズで、それこそノイズからアンビエント、ロック、フリージャズまで、いろいろな音楽を聴くようにはしています。その中から何かを得たり組み合わせたりしながら新しいものを作っていくので、常に自分の限界や新しいことにチャレンジしていくことを心がけています。

―― 日本が好きで何度も来ているとおっしゃってましたが、アジアの他の地域に行くことも多いんですか?

アンバーチ 行きたい気持ちはすごくあるのですが、その気持ちほどには行けていないのが現状です。今まで、タイやインドネシア、香港でやったことはありますが、日本に比べると全然行けていませんね。

―― アジアに対する関心とは、オーレンさんの場合どういうものなんでしょうか。アジアにいる自分の観客、自分の音楽を聴いてくれる人に向けて、音楽をしたいということなのか、あるいはそれぞれの地域で音楽をやっている人に触れたいという思いがあるんでしょうか。

アンバーチ とりあえず日本に限定してお話ししましょう。僕は若いときから日本の実験音楽にとても興味がありました。90年代のことですね。その手のレコードを買いあさったり、大阪などからメールオーダーで取り寄せたりしていたので、とにかく日本には行きたかったんです。とにかくその音楽の現場に自分の身を置きたかったので、一番最初に来たときは何のプランもありませんでした。ただ、そうこうしているうちに自分がよく聴いていたミュージシャンたちといっしょにコラボレーションする機会ができたりするようになっていきました。僕には好きなことはふたつあって、それはレコードを買うことと、美味しいものを食べること(笑)。日本はそのふたつのレベルがとても高いので、それ以降ずっと来続けています。
 オーストラリアは、地理的には比較的アジアに近い場所にあるので、移民が多いんです。タイ人、ベトナム人、特に中国人が多くて、彼らのコミュニティがあるので、そのあたりの各国のエスニック料理も気軽に食べられます。小さいころからそういうものを食べて育っているので、そういうものに対して、異国感みたいなものはあまり感じませんね。オーストラリア人が旅行に行くときは、アジアの国々に行って見聞を広めたりするのですが、僕自身もそうでした。

◯ジャンクショップで音楽開眼

―― オーレンさんの音楽的なバックグラウンドについて聞かせてください。

アンバーチ 僕の母親によると、僕は、おしゃべりを始める前から音楽にとても興味を持っていたらしいです。僕がまだ赤ちゃんのころに、母親が僕をスーパーに連れて行くと、そこで流れているBGMをすぐに真似ていたりしたそうです。僕の母親はその意味では素晴らしい人で、7インチシングルとかレコードをせっせと買ってきてくれていたのですね。そのせいで、僕はかなり小さいころからレコードを集め始めていました。ビートルズとかレッド・ツェッペリン、ポール・マッカートニーなんかのレコードを。

―― お母さまはインド生まれとのことでしたが、インドの音楽なんかはお聴きだったんでしょうか。

アンバーチ 僕の家は音楽に溢れていたので、民族音楽のレコードもとても多く、中東のものを中心にさまざまなものがありましたから、確かにそういう環境ではありましたね。子供時代のいいことは、何に対してもとてもオープンであるということです。たとえばビートルズのホワイト・アルバムを聴いたときに、その中にミュージック・コンクレートの曲が入っていても、そのときはどれが実験的でどれが何とかで、みたいなことはわからないので、ほかの曲と同じようにフラットに、一つの曲として受け入れるわけです。それはとてもいいことだと思います。
 僕の祖父は、中古の楽器やレコード等を売っているジャンクショップを経営していました。お店の中から好きなものを持っていっていいよと言われていたので、僕はそこによく出入りしていました。7歳のときに、そこでリンゴのマークがついているレコードを見つけて、「これ、ビートルズかな?」と思って持って帰ると、それはオノ・ヨーコだったり(笑)。そんなことから、さまざまなジャンルのものにふれ始めたんです。その店にはジャンクのエフェクターやオープンデッキなどの機械もあって、そこでそうしたものにも親しんでいきました。
 僕は子供のころ、すごくドラムがやりたかったんです。10~11歳くらいでドラムを始めたんですが、両親は僕にピアノをやってほしかったんですね。僕はすごく嫌だったので、とりあえず1年くらいやって、もうピアノはやったからいいよねということで止めてしまい、それからドラムひとすじに傾倒していきました。
 そのあと、いろいろな偶然のつながりみたいなものがありました。あるとき祖父のお店で、アイアン・メイデンのレコードを見つけ、「これいいじゃん!」と思って持ち帰ったんですが、中身はマイルス・デイヴィスの『ライヴ・イーヴル』だったんです(笑)。でも、そのタイミングでジャズを聴いた僕は、ジャズにすごくハマってしまったんです。それが13歳のときでした。それからドラムとかロックが過去のものになっていき、僕はジャズの方面に進みました。
 僕の初ライヴは17歳で、そのときはフリージャズのドラマーでした。祖父の店にはエフェクターなども置いてあって、エレクトロニクス系の電子機器に親しんでいましたから、フリージャズのドラムの中でエフェクターやコンタクトマイクを使ったり、テープループを使ったりなど、徐々に機械をフリージャズのパフォーマンスに取り入れるようになっていきました。
 高校を卒業すると同時に、ニューヨークに拠点を移しました。具体的なあてがあったわけではなく、当時自分が聴いていた音楽がすべてニューヨークから来ていたことがわかって、それに触れたいという気持ちが強くなってきたためです。とにかくニューヨークへ行って、レコードを買い、ライブに行き、とにかく食費を惜しんで音楽を聴くという生活をしていました。お金が尽きたところでオーストラリアに帰って、仕事をしてお金を貯めて、再びニューヨークへ行くということを4~5年くらい繰り返しましたね。その中で実験音楽に触れ始めたんですね。1991~92年だったと思います。当時ニューヨークで正統的な意味での素晴らしい音楽もたくさん聴いていました。マイルス・デイヴィス、セシル・テイラー、マーク・リーボウ、ジョン・ゾーン、フレッド・フリスなどですね。でもあるとき、灰野敬二さんのパフォーマンスを見たんです。それは非常にショッキングな体験で、僕が今までもっていた音楽に対する考え方を一から見直さざるを得ませんでした。
 僕はギターを始めることにしました。ギター自体、演奏したことがなかったし、どういうふうに演奏するかも全然わからなかったんですが、エフェクターやエレクトロニクスには慣れていましたし、ロックやフリージャズのドラムの演奏の中でそういう電子機器を使ってもいたので、それらを全部ギターに応用することで次の段階に進むことになりました。ですから、ギターそのものをどう弾くのかは全然わかりませんでした。

―― では、ギターは完全に独学ですか?

アンバーチ そうです、独学です。オーストラリアに帰ってギターを使ったライヴをやると言ったら、みんなから「どうかしてるよ!」と言われたりしました。ニューヨークにいたときに、ある人が僕のことをジョン・ゾーンに紹介してくれました。彼は僕のことを気に入ってくれたみたいで、ギターを始めて1年するかしないかの間に、自分といっしょに演奏しないかと呼んでくれました。そこでフレッド・フリスやアート・リンゼイといった素晴らしいプレイヤーたちといっしょにやらせてもらうことができました。彼にはすごく感謝しているし、多くのことを学びましたね。
 そのニューヨークでの演奏がきっかけで、日本にも初めて行くことができました。ニューヨークでのギグの後にオーストラリアに帰る途中で、乗り継ぎも兼ねて日本に立ち寄ったんです。1993年だったと思います。そこで日本のノイズシーンに出会いました。そこでメルツバウとかマゾンナとかといっしょにやる機会がありました。

◯交流ツールとしてのインプロヴィゼーション

―― アジアン・ミーティング・フェスティバル(AMF)を大友さんが自腹で始めたのは2005年ですが、過去のAMFを観に行ったりされたことはありましたか?

アンバーチ AMF自体は観たことがありませんでした。ただ、面白いことに、僕は大友さんのアメリカでの初ライヴを目撃しているんですよ。ニューヨークに住んでいたころの話ですが、確かゾーンのコンサートでペインキラーとかが出ていたと思うんですが、そのときのセットリストには組まれていなかったけれど、スペシャルゲストとしてグリーン・ゾーン(大友良英:turntables, g, 加藤英樹:b, 植村昌弘:d)が登場して、こりゃカッコいいやつらが来たなあ!という印象でした。そのとき、自分のバンドでベースが必要だったので、加藤さんに急遽参加してもらったりして、いい交流ができていました。
 オーストラリアではペリルというバンドでトニー・バック(d, etc., オーストラリア在住のミュージシャン)といっしょに大友さんが来たりとか、キース・ロウ(g, AMM)とかといっしょにヨーロッパでやったり、大友さんとはいろいろなかたちで交流をしてきています。
 2000年、あるいはもう少し前だったかもしれませんが、自分がオーストラリアで音楽フェスをやっていたとき、そこに大友さんとかSachiko Mさんとかに来てもらったりもしました。大友さんとはしばらく会っていませんでしたが、今どういうことをやっているのかはずっとフォローしていました。

―― オーレンさんは日本でジム・オルークさんとか灰野さんと継続的なインプロヴィゼーションのライヴをしている一方で、フェスティバルの企画もおこなっています。AMFを大友さんが始めたときに考えたことは、ヨーロッパでのフリー・インプロヴィゼーションのシーンだと国境を隔てた人たちが自由に交流することができるけれど、アジアではそれぞれの国が孤立してしまっているところがあるので、もう少し風通しをよくしたい、ということだったと思います。それについてオーレンさんはどう思われますか。

アンバーチ 僕がオーストラリアでフェスティバルをやっていたときは、インターナショナルのミュージシャンをゲストで呼んで、彼らと必ずオーストラリアのミュージシャンが交流できたり、いっしょにやれる場ができるようにしていました。海外のミュージシャンや、経験豊富な人たちから若い世代が学んだり、違う国同士でお互いに学び合えることはとても多いと思うので、そういう意味では交流は非常に大切だと思っています。僕もヨーロッパのミュージシャンと知り合って、ヨーロッパでいっしょにレコードを作ったり、いっしょにツアーをやったりすることに繋がっていくこともありましたから、そういうシーンを作ろうとしている大友さんの気持ちはとてもよくわかります。アジアではまだそういう動きが少ない状況だし、たとえばタイやベトナムにはそういうシーンはあまりないんじゃないか、と思われがちだけれど、もちろんそんなことはなくて、どこの場でもいろいろなシーンがあるわけですから、それらを繋げていくことは素晴らしい取り組みだと思います。

―― インプロヴィゼーションに意識的に取り組んでこられたオーレンさんとしては、交流の手段としてインプロヴィゼーションを用いることは有効だと考えますか?

アンバーチ インプロヴィゼーションはとても有効な方法だと思います。インプロヴィゼーションは交流みたいなもので、みんな同じ立場でフラットな状態で進んでいくもので、こういうふつうの会話とある意味同じです。決まりやルールや台本などが何もない状態で、誰かが何かをいって、次に「それ面白いな」と思って意見をいう人がいたり、ときには意見が衝突したり、あるいは発言をあまりせずに二言三言だけ発する人がいたりとか、それがふつうの状態ですよね。インプロヴィゼーション、あるいはパフォーマンスの場も、それとまったく同じです。台本がないオープンな状況で交流を促すという意味では、インプロヴィゼーションはとても有効な方法だと思います。
 しかし、そこにはいい面と難しい面とがあって、たとえば灰野さんのようにとてもキャラクターの濃い人がいた場合、そのパフォーマンスは彼の感受性でもっていかれてしまうことになりがちです、いつもではないにしてもね。とはいえ、難しい面はあっても、そういうオープンな状況で、ひとつの考え方とか美学とかやり方とか哲学といったものに縛られないフリーな交流は、とても有効な方法だと思います。

―― AMFは最終的にはアジアという枠にとどまらず、ヨーロッパをはじめとした世界中とも繋がっていくことが理想で、今はその最初の段階にいるということだと思います。そこに今回オーストラリアに住むオーレンさんが加わるということは、またひとつ新たな展開に進みつつあると感じさせます。今後オーストラリアのフェスとAMFとの間に交流が生まれる可能性はあると思いますか?

アンバーチ もう本当に全然ありだと思います。オーストラリアでは今、実験音楽シーンはとても活発でさまざまなライヴが起こっています。外から海外のミュージシャンがプレイしに来ることも増えて、いろいろなことが活発に起こっていますから、十分ありえる話だと思います。

◯東洋の音楽と西洋の音楽との相克

―― 最後に抽象的な質問をしたいと思います。これまで東洋の音楽と西洋の音楽を同居させようという試みはいろいろされてきましたが、あまりうまくいかなかったことの方が多かったのではないかと思います。西洋の側では西洋の側で考えられた音楽のシステムに、東洋の音楽を当てはめることで事足れりとすることが多く、要は、東洋の音楽が西洋の音楽に使われてしまうような関係が長かったように思います。しかし、今は、むしろ西洋の方こそが変わることを迫られているのではないでしょうか。

アンバーチ 本当におっしゃるとおりで、今まで西洋の音楽では、東洋の音楽を表面的に取り入れて浅く利用することが多かった。エスニック的な要素をエキゾティックな感じになるように、浅く使われていたと思います。それはやはり変わっていった方がいいでしょうし、変わっていくところを僕も見たいと思います。音楽に限らず、すべてのアートのジャンルにいえることでしょうが、白人のエリート主義的な考え方や枠組みに当てはめようとするのが今のスタンダードで、それはやはり変わった方がいいと思います。

―― そのときに西洋音楽が変わることがありうるならば、どこが変わっていくべきだと考えますか?

アンバーチ 僕が音楽に惹きつけられる点は、まず"音"です。個人的には、音楽を作るときに、僕にはジェンダーはないと思っています。音というものに興味があって、ある意味僕はひたすらにそれを追求しているだけともいえます。僕がジョン・ケージが好きなのは、音そのものを扱っていたところです。僕が90年代初期の日本のノイズシーンに惹かれたのも、同じノイズでもヨーロッパやアメリカのノイズと全然異なっていて、音そのものへの純粋な関心というか、"音"そのものをやっていると感じられたからでした。政治的だったりマッチョだったりするようなクソみたいなものはなくて、ひたすら音に浸かっているような状態、そこに僕は興味を感じたわけです。それがアジア的なものなのか日本的なものなのかまではよくわかりませんが、とにかくそこに惹かれたので日本に来たわけです。今、さまざまなシーンがありますが、やはり一般的に情報として出てくるのはごく一部のごく限られたもので、たとえばアメリカのシーンの話が一番スタンダードな情報というようなかたちで出てきがちなわけです。そのほかにもいろいろなことが世の中で起こっているのにそれについてあまり語られないような風潮はやはりどうかとは思います。アメリカの実験音楽の人たちと話したりして、彼らの問題意識にふれたこともありますが、僕の日ごろ考えていることとは少し違うなあ、と感じることもあります。