オッキョン・リー インタビュー

オッキョン・リー

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聞き手=須川善行

◯ジャズの中でチェロを弾く

――オッキョンさんの音楽的なバックグラウンドについて聞かせてください。

 音楽には長い間興味をもってきました。韓国では、特に女の子を教育するときには音楽を習わせることが文化的に重要だと思われています。もちろんこれは社会的なステイタスを示すためでもあるでしょう。そこで私は、まず3歳のときにピアノを、6歳からチェロを始めました。私が通っていた私立の小学校では、みんなそれぞれ楽器を演奏しなければいけないという決まりがあって、私は母に「チェロをやりなさい」といわれたので、そのころの年齢の子供としては大変なことながら、始めることになりました。カトリックの小学校に通っていたので、シスターにチェロを習いましたが、とても厳しかったです。
 そのままクラシック音楽の勉強を続けてきましたが、大学に入るときに、ボストンのバークリー音楽学校でジャズを勉強することになりました。でも、その当時私が知っているジャズと、学校で見たものとはまったく異なるものでした。

――オッキョンさんの思っていたジャズとは、どういうものだったんですか。

 そのころは、マイルス・デイヴィスのことも知らないくらいでした。韓国では、マイルス・デイヴィスはまったく知られていなかったんですね。ですから、そのころ聴いていたのは、デイヴ・グルーシンなどのスムース・ジャズです。マイルス・デイヴィスとかジョン・コルトレーンとかについては何もわからないまま、まわりの人たちがいいというので知っているふりをして、こっそり聞いていました。
 1~2年生のころに、オーネット・コールマンが学校に来て、コンサートを開きました。みんながスタンディング・オベーションをしていましたが、私はまったくわかりませんでした。当時19歳だったので、ただ音が外れているとしか思わなかったんですね。
 3年生か4年生になったころにマイルス・デイヴィスやコルトレーンの音楽を聴いて、それが具体的に何なのかはわからなかったけれど、理解ができたような気がしました。耳が開かれたような気がして、そのころから即興に興味を持つようになりました。必ずしもジャズではないかもしれないし、それまでにジャズを楽しんだこともありませんでしたが、それまでないようなかたちでジャズや演奏を楽しめるようになったと思います。
 私はチェロを弾くわけですが、音楽を聴き始めたころは、ジャズの中でのチェロは、ちょっと甘ったるい感じがするので、あまり好きではありませんでした。ヴァイオリンだったらいいのにと思うこともありましたね。チェロをとてもうまく弾ける人はほかにいましたが、私としてはそれまでには認められなかった自分なりのアプローチを、チェロを演奏するときにやってみたいと思っていたんです。
 自分では即興がどういうものかも、その価値基準もどういうものかよくわかりませんでしたが、それでもそういう音楽が面白いと思っていたので、修士号をとるためにニューイングランド・コンサバトリー・オブ・ミュージックに行きました。そのときソロの即興で演奏したものを2曲分提出して入学ができたんですが、その理由はまったくわかりません。それでも周りの人が話していることは相変わらずよくわからないまま聞いていました。
 そのチェロとのコンビネーションがとてもよかったので、面白いと思うようになり、それから音楽的にも次のステップに進むことにしました。メインストリームのジャズから少し離れて、ヨーロッパの影響を受けたジャズを聴くようになり、自分としても、テクニックを拡張したスタイルを見つけたいと思うようになりました。
 そのころには、ボストンは小さい街なので飽きてしまい、ニューヨークに引っ越すことにしました。ジョン・ゾーンにもそのころ会いました。マサダを見たり、「コブラ」という曲をやっているのも見ましたね。ニューヨークのクラブでは、いろんな人に会いました。ミュージシャンはもちろん、聴きに来る人たちも多い中で、音楽をいろいろなところで聴くことができて、毎日それまで聴いたことのないような音楽を聴くことができました。自分も誘われれば何にでもイエスといって、できるだけたくさんの人と一緒に演奏をするようにしていました。

◯作曲家として、インプロヴァイザーとして

――僕はオッキョンさんの『Ghil』というアルバムも好きで、作曲家としてのオッキョンさんも素晴らしいと思っています。作曲するにあたってオッキョンさんが考えていること、心がけていることは何でしょう。

 自分の作曲したものが、ピッチが外れているとかメロディがないと思われてしまうこともありますが、私自身はメロディも好きです。作曲をするときには、私はどちらかというとゆっくりと進めるほうです。自分の頭の中でメロディが聴こえていることもあれば、断片的に聴いていることもあるし、ジェスチャーのようなものとして現れるときもあります。ただ、自分で聴いているのものをできるだけ正直に表現しようとすると、どうしても時間はかかってしまいますね。何らかのスタイルに合ったものでなければいけないんじゃないかというプレッシャーも感じますが、そういうプレッシャーからはできるだけ距離を置くようにしています。
 自分自身の音楽はとても個人的なもので、それを自分の中から引き出して表現したいと思っていますし、そのできあがった音楽には、自分の人としての歴史のすべてが表れるものです。自分に聴こえてくるものを表現すると、ときによっては魂をさらけ出すような、言葉にはならなくとも自分をさらけ出すようなものになっていると思います。それを洗練されたものにしていきたいと思っています。

――オッキョンさんは、ニューヨークでとてもたくさんの、しかも有力なミュージシャンと共演をされてきたわけですが、一方で、今回のアジアン・ミーティング・フェスティバルに参加されてどんな印象をお持ちでしたか。

 今回アジアのいろいろな国や地域の人たちが集まっているところに来られて、とても面白かったです。それから特に、この参加者の人たちの多くがエレクトロニクスに関してとても詳しく知っていると感じました。アジアではこういう音楽自体がまだ始まったばかりですし、その中でやはりテクノロジーが重要な役割を果たしているので、それで人が引き寄せられているように思います。
今回はこの機会に、周りの人たちがどんなふうに演奏しているのかも見ていました。参加者も世代がいろいろと異なる人たちでしたね。今まで私は年上の人たちと演奏することが多かったんですが、たとえば京都で一緒に共演したドラマーは21歳でしたし、ピートさんは25歳、ナタリーさんは28歳でとても若かったので、私もいろいろとチャレンジしてみたくなりました。
 今はインターネットを使って情報には簡単にアクセスできますし、人の演奏を聴いたり、シミュレーションをしたり、チャットで共演者を選ぶこともできます。実験音楽であれどんな文化であれ、成熟するまでには時間もかかります。ですから、今後何十年も続けていくためには、他のミュージシャンとそうやって共演したり交流することで、いろいろな異なる分野にも浸透していければいいと思っています。そのためには楽観的でありつつも、同時に批判的な視点も持ったほうがいいでしょうし、そのバランスが重要だと思います。

――ニューヨークなどでアジアン・ミーティング・フェスティバルのように、たくさんのミュージシャンといっぺんに共演することもこれまであったと思うんですが、そういうところで出会ったミュージシャンとアジアのミュージシャンとでは、お互いの中での反応の仕方で、違いはありますか。

 それぞれがお互いから引き出したりやりたいことをやるという点は同じです。ただ、ニューヨークがインプロヴィゼーションを一番やりやすい場所ということではありませんし、イギリスやヨーロッパの国のほうがもっと盛んかもしれません。ただ、ニューヨークのミュージシャンの場合には、皆それぞれがはっきり異なるスタイルを持っていたり、背景が違う人たちが集まってやっています。
 今回の場合には、スタイルがはっきりと決まっているわけではない人たちが集まっていたのが特徴ですね。ニューヨークでは、いわゆる楽器を演奏している人が多いですが、今回は電子楽器や、エレクトロニクスで変調した音を使っている人たちが多かったですね。
 ただ、演奏をしてお互いに反応しあうこと自体は、世界中で共通しています。たとえば今回の参加者の中で、ナタリーさんのようにはっきりと音の特徴自体がとてもはっきりしているので、聴いてすぐにわかるというような楽器の場合もありますが、それでも即興でお互いに反応し合っていくところは同じです。
 さっきアジアではこうした音楽の歴史が比較的浅いといいましたが、今後も続いていけば、ニューヨークやヨーロッパの即興音楽のように伝統のあるものになっていくのではないでしょうか。私はそうなってほしいと思っていますし、未来は明るいと思っています。