スキップ・スキップ・バン・バン

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インタヴューア=大石始

◯シルヴァー・アップルズが大好き

――どうもこんにちは。

 (流暢な日本語で)こんにちは、バンバンです。よろしくお願いします。

――どうして日本語を話せるんですか?

 8年前、岩手の盛岡市で3か月ぐらいアルバイトをしたことがあって。小学生のころから日本の音楽やアニメ、映画が大好きだし、もともと台湾は日本に統治されていた時代もあるので、おじいちゃん、おばあちゃんも日本語を話せるんですよ(以下のインタヴューは日本語、北京語、英語が入り混じる形で行われた)。

――今回のアジアン・ミーティング・フェスティバルに参加してみてどうでした?

 自分のライヴではインプロヴァイズの要素を採り入れることもあるんですけど、他のプレイヤーと一緒にインプロヴァイズをやったのは今回が最初です。初めて会う人たちばかりですし、それぞれの言語も違うわけですけど、目標とか意識が一緒だったので、私も自由に演奏することができました。

――子供の頃はどんな音楽を聴いてたんですか。

 お父さんは若い頃、賛美歌のクワイアに加わっていて、よく演奏旅行に出かけてたんですけど、よくジャズも聞いてたんです。それで私もジャズを好きになりました。デューク・エリントン、ビリー・ホリデイ、マイルス・デイヴィス、あとはジョアン・ジルベルトのようなボサノヴァとか。

――音楽をはじめたのは?

 13歳からジャズ・ピアノのプライヴェート・レッスンを受けはじめて、15歳から自分で曲を作り始めました。最初のバンドを始めたのが17歳で、それが今もやっている雀斑(Freckles)です。2003年と2007年に貢寮國際海洋音樂祭という台湾のフェスティヴァルのコンペティションに参加して、2007年のときに賞を受賞しました。貢寮國際海洋音樂祭は台湾でも数少ない有力なコンクールで、若手バンドの登竜門のようなものなんです。

――そういえば、さっきiPhoneでシルヴァー・アップルズ[60年代末に2枚の作品を残したニューヨークのエクスペリメンタル電子ポップ・ユニット]を聴いてましたよね? 

 はい、聴いてました(笑)。シルヴァー・アップルズ、大好きなんです。雀斑は2008年に一度活動を休止して、同じ年にボーイズ&ガールというバンドを始めたんですけど、その頃からエクスペリメンタルなバンドを聴くようになりました。ヴェルヴェット・アンダーグラウンド、シルヴァー・アップルズ、カン、マイ・ブラッディ・ヴァレンタイン。ちなみに、私以外のボーイズ&ガールのメンバーは今、森林(Forests)というとてもいいバンドをやっています。

◯北京と台北の音楽シーン

――2010年からの数年間、北京を拠点にしていましたよね。その理由は?

 私は昔からいろんな文化を体験してみたいという思いが強くて。大陸の文化にも子供のころから興味があったんですが、台湾と大陸の間はそれほど情報が行き交っているわけではないですし、壁一枚で隔てられているような感じがありました。それで、好奇心から北京に行くことになったんです。

――行ってみてどうでした?

 北京のインディー・シーンは層が厚いんですね。兵马司(Maybe Mars)というレーベルがあって、ここはD22というニューヨークのCBGBみたいな雰囲気のライヴハウスをやっています。中国のバンドがたくさんライヴをやっていて、毎週水曜はインプロヴァイズの日。そこでエクスペリメンタルな音楽を好きな友達がたくさんできました。その後、(北京のインディー・バンドである)カーシック・カーズで6か月間ドラムを叩きました。

――台北と北京のシーンの違いは?

 環境はだいぶ違います。台北のほうが小さいですし、演奏できる場所も限られている。北京は演奏できる場所も多いし、観客も多いし、人自体も多い(笑)。台北と北京に共通していえるのは、まだまだ成長段階にあって、西側の世界とは隔たりがあるということですね。私はアメリカにいたことがあるので、特にそういう実感があるんだと思います。ただし、ひとつ言えるのは、ミュージシャンが創作する目的は、最終的にアルバムを出すだけではないということ。台北にしても北京にしても、インディーのミュージシャンは周囲の音楽的環境に物足りなさを感じてるだろうし、社会から常に圧力を受けてると思うんですね。でも、アメリカのインディー・バンドなどは音楽が日常の一部になっていて、日常の楽しみになっている。私もそういうふうに音楽を続けていければと思っています。

――今の台北のシーンについてはどう思いますか?

 インターネットが発展することで情報がたくさん入ってくるようになりましたし、私の子供の頃から比べるととても恵まれていると思います。ただし、台北のシーンにとってボトルネックになっているのが、ライヴハウスを訪れるオーディエンスが年々減ってきているということです。インターネットでライヴ・パフォーマンスも観れるようになって、わざわざライヴハウスに行く必要がなくなってきちゃったんですね。でも、私はポジティヴに考えています。こういう状況だからこそ、創作する側はもっと魅力的な音楽を作ろうと頑張るはずだし、音楽制作の環境を安く整えられるようになったことで誰でもDIYで音楽を作れるようになった。そのぶん台北のなかでも競争は激しくなってますね。

――台北インディー・シーンの象徴ともいえるライヴハウス、地下社會(Underworld)が2013年に閉店してしまったりと、台北でもクローズするライヴハウスも多いと聞きます。

 確かに家賃の高騰によって閉店するライヴハウスも多いんですが、一方では新しくオープンするところも多いんですよ。やっぱり長く続けていくうえでは経営の問題は大きいですよね。政府からの公的な支援も必要だと思うんですが、私たちがやってるようなインディー音楽でそうした支援を得るのは簡単なことではありません。このままだと将来的にはコンサートホールもなくなるんじゃないかという人もいますが、私はそんなことはないと思います。環境にあった形の音楽の場というものが現れるんじゃないかな。

――今後の活動に対するヴィジョンや目標があれば教えてください。

 音楽を通して、世界中のさまざまな人たちと繋がっていきたいと思ってます。なので、今回のアジアン・ミーティング・フェスティバルは私にとってとても有意義な機会になりました。