Asian Meeting Festival 2016 6th Day in Kyoto 新しい即興はいかにして可能か 細馬宏通

新しい即興はいかにして可能か細馬宏通

054.JPG 即興ってなんだろう、と問い直したくなることがときどきある。本来、即興とは自分の持つ制約から離れて自由に演じることを表すはずだ。しかし、実際の即興音楽の多くは、長い歴史のうちにイディオムのようなものを纏い出してきた。静かなイントロから、既成の構造からある程度はずれつつもまとまった音列を「インタープレイ」して観客を満足させる。もちろん、それぞれの演奏の細部にはプレイヤーの個性が埋め込まれているから油断はできないのだが、こうした即興の相互行為には、どこか既視感が感じられる。
 では、こうした即興の様式が通用しないような場所で、新しい即興はいかにして可能か。そうした問いを抱えた者にとって「アジアン・ミーティング・フェスティバル」は先進的な試みとして浮かび上がってくる。なぜなら、そこでは、イディオムが全くかけ離れている者どうしが出会い、演奏時間を紡ぎ出そうとしているからだ。
 京都METROで2016年2月12日に行われたアジアン・ミーティング・フェスティバルは、3人のセットを5つ演るという方式。縦長の地下クラブであるMETROのフロアの両端に半分ずつ機材が組まれ、ひと組目が前方端で演じると、次の組は後方端で演じる、という風に交互に演奏が行われた。各人の演奏を間近に見ることができ、それぞれの演奏者の個性が堪能できるよい試みだったと思う。
 最初のセットは、大友良英(東京) 、ソンX(ハノイ) 、ピートTR(バンコク) の三人による演奏。ソンXはビー玉やざらざらしたざるを用いて映画の音効のような音を作り出していく。途中、ピートTRの笙がぼうぼうと鳴り出すと、大友はお互いが音色を塗り重ね合うようなプレイへと変じ、ビーチボーイズの「キャロライン・ノー」のエンディングが延々と続くかのような奇妙な音像が表れだした。
 二番目のセットはナタリー・アレクサンドラ・ツェー(シンガポール) 、吉田ヤスシ、dj sniff(香港)のセッション。水平の機械に向かうdj sniff、ボーカルで体を上下させる吉田に対して、ナタリーが弾くグジェンが独自の音色を放っておりおもしろかった。二人のかなりの音量による演奏に対して、トレモロ奏法やバチによる打弦奏法を駆使しながら確実に自分のプレイの輪郭を作っていく演奏をきいていると、ナタリーがこの楽器一つで、いくつもの経験値を積んできたのであろうことがうかがわれた。
 ソロでは美しいギタープレイと歌声をきかせるスキップ・スキップ・バンバン(台北)、フィオナ・リー(香港)、そして和田晋侍の取り合わせは、全く何が起こるのか予想が付かなかったが、いざ始まってみると意外にも緊張あふれるギターポップス。フィオナはシンセサイザーのフレーズをその場で作るなど、どちらかというと長いフレーズを出してそのループに自らのっていくような演奏スタイル。和田のドラムは理知的に隙間を作り出しビートを刻んでいき、そこにバンバンが夢見るようなフレーズを載せて歌にしていく。途中、感極まったフィオナがぐるぐるとコードのつながった電球を回しだし、そのあまりにおもいがけなくエモーショナルな表現にぶっとんだ。予想外という点ではこの日随一だった。
 ユエン・チーワイ(シンガポール)、クリスナ・ウィディアタマ(ジョグジャカルタ)、 毛利桂は三人とも遠慮仮借のないノイズ演奏。中で、毛利が足蹴にするように鳴らすレコードプレイヤーが、中低音で悲鳴をあげていて、見ているとこちらがレコードプレイヤーの身になってしまうという、サディスティックな演奏。
 最後のセッション、オッキョン・リー、ヨン・ヤンセン、村里杏のセットは圧巻。高速のパッセージの中で多彩な音色を正確にコントロールするオッキョンのチェロ演奏は、メンバーの中でも際だって凄まじく、ヨンのタッピングを交えたパーカッシブなサックスと時に溶け、時に対比的なプレイを繰り広げるのだが、そこに若い村里が通常のドラムセットを使いながら次々と斬新なフレーズを叩き出し、二人のインプロヴィゼーションに新しいアイディアを提供していた。青山スパイラルで見たときのオッキョンとヨンは、アンサンブルに気を遣いながらソロに回ったときに自己主張をする、というスタイルだったが、このセットでは躊躇のない村里のドラムに煽られるように、フロントで自分の音を押し出しながら互いに混ぜ合っており、心躍るプレイだった。
 今回のメトロのライブは、短い演奏ながらそれぞれの演奏者の手元がよくわかり、又、基本的に三人によるセッションということもあって、各人の個性がよく表れていたように思う。こうした演奏では、きくこちら側の耳も試される。いわゆるフリージャズやインプロヴィゼーションが纏いがちな様式をいったん棚上げにして、まったく異なる音楽のバックグラウンドを持った者どうしの間でいったいどんな時間の紡ぎ方がありうるのかに耳を澄ますことになる。青山スパイラルホールでの演奏は、全員のセッションの時間もあったせいか、全体の調和性を志向するかのような感があったが、このメトロでのライブでは、それぞれの演奏者がセッションからはみ出すように音を出しながら、これまで作り上げたことのない音像を模索していた。そういえばこの晩は「爆音」というふれこみで、確かに各人の出していたのは音量の上で爆音と呼ぶにふさわしいものだったが、むしろそこで奏でられていたのは量と言うよりは質的に遠慮のない音であり、新しい「ミーティング」の可能性を感じさせる内容だった。

細馬宏通(ほそま・ひろみち)
1960年生まれ。現在、滋賀県立大学人間文化学部教授。
専門は日常会話の身体動作研究とメディア史。介護、手話会話、演劇、ゲームなどさまざまな場面で人の動作について考える一方で、明治期以降の塔や絵はがきの果たした役割について論考しています。著書に『浅草十二階』『絵はがきの時代』(青土社)、『ミッキーはなぜ口笛を吹くのか アニメーションの表現史』(新潮社)、『うたのしくみ』(ぴあ)。バンド「かえる目」では、ボーカルと作詞・作曲担当。