Asian Meeting Festival 2016 4th Day in Kobe ミーティングが連鎖する 大澤 聡

ミーティングが連鎖する大澤 聡

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 僕にも韓国ドラマ漬けの日常があった。
 2000年代前半のこと、ちょっとした経緯があって、例のブームに「あえて(=ネタで)」乗ってみたつもりが、気がつけばすっかり「ベタ」なドラマファンとなりはてていた――「ネタ/ベタ」も当時の思想界隈のキーワードだ。連日何時間も立て続けに観るものだからリスニング能力だけはみるみる向上していくが、上手く発音できるわけではない。上手くないのかどうかもよく分からない。とにもかくにも数年におよぶ没入期間を経て、あるとき僕は韓国ドラマの世界からふっと離脱することになるのだけれど、それから10年経ったいまでも脳内限定で再生される語彙がいくつかあって、そのひとつが「미팅(ミティン)」である。英語の「meeting」に由来するこの語は、字義どおり「ミーティング」や「会議」の意で用いられるが、状況によっては「合コン」という意味にもなる。頻出単語というほどではないにせよ、言語間の落差が僕の体内に強烈なインパクトを残しているらしく、いまだに英語や日本語で「meeting/ミーティング」と聞くと、即座に合コンが連想されてしまう。連想しては毎度あわてて頭から掻き消す。
 そう、「アジアン・ミーティング・フェスティバル2016」の話だった。
 僕がお邪魔したのは2月8日の神戸公演。タイトルから例によって合コン――それも、アジア全域から男女が結集するすごいやつ――をイメージしては掻き消し掻き消し、会場である神戸アートビレッジセンターへとむかう。当該プロジェクトに関する事前知識をほとんど持ちあわせてもいなければ、この手のライブを聴きに足を運ぶ習慣もまったくない(この文章を寄稿することだけが決まっている)まっさらな状態だったものだから、よけいに合コンの想像図が有力候補としてせりあがってくるのだけれど、じっさいのところ、現場は合コン以外のなにものでもないのだった。まちがってなかった。
 東アジアや東南アジアの各地から招集されたほぼ初対面同士のミュージシャンやアーティスト10数名がぐるりサークル状にむかいあって、2時間ほどフリーセッションを披露する。即興アンサンブルだ。シームレスなリレー方式によって常時3、4人が入れ替わり立ち替わり演奏してゆくスタイルで、人物の組合せが連鎖的にシフトしていく。奏者にそのつどスポットライトがあたる。同時代のアジアにおける自覚されざる音のネットワークが偶発的に可視化される瞬間の連続だった。特権的な中心をつくらない、いわば多中心的なネットワークだ。いくつものマッチングラインが星座を有機的に構成し、随時そのかたちを組み替える。アングラでマイナーな音楽ジャンル(ならざるジャンル)であるがゆえに、そして空間的に離れているがゆえに、ふだん文脈が意識的に共有されることなどほとんどない。各々独自に進化を遂げた音たちが、いま、ここでこうやってひとつの空間を共有している。
 観客は薄暗い会場のどこに座ってもよい。演奏中の移動も自由。事前にそうアナウンスされたものの、みなしばらくは様子見する。が、しだいに大胆になっていく。気になった楽器のそばに寄って音を直に体感する者もいれば、遠くから公演全体を眺望する者もいる。ポジションしだいで見える光景も音もぐんぐん再編成される。奏者にしても同じこと。全員で空間を共有し、その場かぎりの一回的なミーティングを形づくる。
 繰り出される音源も多種多様だ。ギターや古箏、チェロ、シンセサイザー、ターンテーブルといった馴染みある楽器ばかりではなく、笊(のようなもの)やガラスボウル(のようなもの)、見慣れぬ民族楽器(のようなもの)、もはや形容しがたいデジタル装置(のようなもの)などおよそ楽器らしからぬ"飛び道具"も続々飛び出す。ヴォイスパフォーマンスもあった。バラバラだった異種のノイズがゆっくりと絡みあっていく、そのプロセスはまさに合コンそのものだ――ただし成功した場合のそれ。これに、そこここで蠢く観客たちの微かなノイズが追加される。赤ん坊の声も聴こえた。どんどん噛みあう。
 しかし、噛みあうとは何か?
 アンサンブルなのだから、とうぜん相互に配慮し、音を調整しあっている。相手の出方を見定めつつ、慎重に息をあわせる。それは言語外の作業だ。けれど、その「相手の出方を見る」あり方を僕は現場でちょっと別様に脳内変換していた。しっかりと目配りしあう様子もさして見られず、粛々と各自の作業に没入し(作業テーブルが各個割り当てられているのだけど、そこに籠っているようにも見えた)、サークルの空虚な中心地に得意の「技=パフォーマンス」を繰り出し続ける。その光景は僕に対戦型のアーケードゲームを連想させた。たまたまゲームセンターに居合わせた者同士、あるいは遠隔地にいる者同士がディスプレイを挟んでこちら側とあちら側とで対戦するあれ。相手方の表情は見えない。こちらで何らかのアクションを起こして、たとえば攻撃を仕掛けたりアイテムを投下したりして、相手の反応を待つ。その連鎖がゲームを成立させる。プレイヤーが操作するキャラクターたちも種々の特技をもつ。ずっとそれを連想していた(合コンだったりゲームだったりと、プロジェクトの趣旨を台無しにしてしまいそうだけれど......)。強烈な"飛び道具"たちの存在はこの連想を補強する。まさに手持ちのカードを順繰り切っていくようだったのだ。そして、「meeting」は原義的に「対戦」「闘技」の意味をも孕みもつ。
 じっさいに、あるアーティストは、任天堂のゲームボーイ3台(!)をスピーカーに接続し、ボタンを押すと「ぴゅ~っ」という効果音が出る装置を操っていた。後半部の全員一斉に合奏する混沌とした喧噪の渦中にむけて効果音を投下しては、他の演奏者の反応を伺っている様子だった。アクションがスルーされることもあれば、相応の音が飛び返ってくることもある。その共鳴関係や非共鳴関係に他の奏者がさらなる応答をかぶせる、ことだってある。そうやって、いくつものフレーズが塗り重ねられ、場が上書きされていく。
 「噛みあう」はこのようにして可能になっていた。ジョン・ダーラム・ピーターズという研究者は相互的で直接型の対話ではなく、非相互的で拡散型の(メディアを介した)対話をコミュニケーションの基底に設定している。そして、印象とは裏腹に後者モデルにこそ倫理的な課題が埋まっているのだと考えている。今回の公演はまさにそのモデルに近いところでコミュニケーション様態の可能性を期せずして体現していたように、僕には思えるのだ。セッションの様子はいずれYouTubeなど動画配信サイトに放流=アーカイブされる。そして、時間や空間を超えた別の誰かの応答を生むだろう。そのときにはもはや音楽というスタイルが選択されないのかもしれない。ともかく、そうやってミーティングは連鎖に連鎖を重ね、音たちはこのあとも拡散していく。
 僕が韓国ドラマに没頭した2000年代前半、アジアのネットワーク構築が政治・外交以外の多様な領域や水準で模索されていた。可能性もいくつか垣間見えた。しかし、この10年でバタバタとバックラッシュが連動的に発生し、いまや僕たちはさまざまな局面で摩擦と抗争を抱え込んでいる。それがアジアの現状だ。当時とは別系のコミュニケーション回路が探査されなければならないわけだけれども、そのためのヒントはたとえばこんなところにもあるのかもしれないなぁ、などと考えを巡らせながら、応答が応答を呼んでなかなか終幕を迎えない、しかしながらそれがまったくじれったくなくむしろ心地よい、そんなクライマックスの異様な熱量に身体をあずけきっていた。

大澤聡(おおさわ・さとし)
1978年生まれ。批評家、メディア研究者。近畿大学文芸学部講師。著書に『批評メディア論』(岩波書店)など。