「輪」であること大石始
アジア各地から10人の音楽家を招聘した昨年度の「アジアン・ミーティング・フェスティバル」(以下、AMF)は、各所で大きな反響を巻き起こした。招聘されたのは決して日本で広く知られた音楽家ばかりではなかったが、日本人アーティストも交えて行われたセッションは他に類を見ないスリリングなものだった。その衝撃がまるで水面に広がる波紋のように少しずつ浸透し、昨年のAMFに足を運ぶことのできなかった観客の間にも広がっていったのだろう。筆者が足を運んだ東京公演3日目、南青山Spiralの会場には、開演前から〈今年はいったい何が行われるのだろう?〉という期待感と熱気が満ち溢れていた。
この日の東京公演に関して言えば、昨年度とは異なる点が2つあった。ひとつは音楽家の配置。昨年は会場内に各音楽家がランダムに散りばめられていたが、この日は輪になるように配置されている。後述するが、こうしたセッティングの違いによって、今年は昨年度とは異なる音楽空間が創出されることになった。ただし、聞くところによるとこの配置は昨年の京都ですでに実現されていたとそうで、その反面、今年度の京都では逆にランダムになるようセッティングされていたという。このように毎年新たな空間を見せてくれるのがAMFのおもしろさでもある。
また、公演形態そのものも今年は違った。昨年はランダムに座った音楽家たちが順番にパフォーマンスを行い、それらが重なり合ったり離れたりしながら、最終的にひとつの音塊となっていくプロセスそのものを見せるという構成が取られていた。だが、今年は休憩を挟んだ二部構成。前半は3人ないしは2人ごとのセッション、後半は全員でのフリー・セッションという構成となっていて、ひとりひとりの個性によりフォーカスをあてた公演となった。
前半一組目に登場したのはナタリー・アレクサンドラ・ツェー(シンガポール)、ヨン・ヤンセン(クアラルンプール)、オッキョン・リー(ニューヨーク)という3人。ナタリーが奏でる古琴、ヨン・ヤンセンのサックス、オッキョンのチェロという3つの生楽器がときに反発し合い、時に溶け合いながらひとつの流れを作り出していく。いずれも欧米で経験を積んできたインプロヴァイザーだけあって、緊張感に満ちた素晴らしい演奏を披露してくれた。
二組目はソンX(ハノイ)、dj sniff(香港)、石原雄治という組み合わせ。ベトナムの伝統打楽器奏者であるソンXがどのような演奏を聴かせてくれるのか個人的にも大変興味があったのだが、容器にビー玉のようなものを入れ、ガサガサと転がしている。そこに石原がシンバルをこする音を、dj sniffが匿名性の高いノイズを重ねていく。異色の組み合わせによる興味深いセッションとなった。
三組目はピートTR(バンコク)、フィオナ・リー(香港)、大城真。香港でもっとも先鋭的なサウンド・アーティストであるフィオナ・リー、自作のリレー(電磁継電器)によるユニークなライヴ・パフォーマンスで知られる大城真に対し、ピートTRはピンやケーンといったタイの伝統楽器と変調ヴォイスで挑んでいく。エクスペリメンタルとトラディショナルの枠組みに囚われないこのフェスらしいコラボレーションだったと言えるだろう。
四組目はクリスナ・ウィディアタマ(ジョグジャカルタ)と大友良英の対決だ。インドネシア・ノイズ・シーンで活動するクリスナはアグレッシヴなノイズを鳴らし、大友のギターはそのノイズに呼応するかのように悲鳴を上げる。2人ゆえの丁々発止のやりとりが会場内の熱気を一気に上昇させる。
ラストとなる五組目はユエン・チーワイ(シンガポール)、スキップ・スキップ・バン・バン(台北)、七尾旅人という3人。ユエン・チーワイはポスト・ロック系バンドであるオブザーヴァトリーのメンバー、スキップ・スキップ・バン・バンと七尾旅人はエクスペリメンタルな要素も持ったシンガーソングライター。ある意味では今回の顔ぶれのなかでもっとも実験音楽的ではない3人ではあるが、歌とインプロヴィゼーションの中間領域を創造していくようなセッションにはAMFならではの刺激が満ち溢れていた。最後にポロッとこぼれ落ちたような七尾の歌声に思わず溜め息が洩れた。
それぞれのプレイヤー/表現者としての魅力がはっきりと伝わってきた前半に対し、メンバー全員でのセッションとなる後半からは見えてきたのは、プロジェクトそのもののおもしろさ。先述したように、筆者が観た東京公演3日目は音楽家たちが輪になる形で配置されていたわけだが、「輪」であることの特性が後半になって浮かび上がってきたのだ。輪であることによってセッションにおける絶対的な中心は失われ、たとえば盆踊りがそうであるように、ひとりひとりの匿名性が高くなっていく。そして、これもまた盆踊りと同じように、その輪から逸脱していこうという動きも自然と生まれてくるのである。この日のAMFでいえば、自分のポジションから突如離れ、輪の周りにひとつひとつリレーを置いていった大城がそうだろうし、輪に溶け合いながらも、ふとそこから声によって逸脱していく七尾がそうだろう。融和と逸脱の繰り返しによって音の輪は何度も何度も作り替えられ、そのたびにフレッシュな音空間が生み出されていくのだ。最後の音が止まった後、観客からはごく自然に温かな拍手が沸き起こった。それに対し、安堵の表情を見せる音楽家たち。筋書きのないセッションだからこその充実感が演者/観客両方に充満しているのが分かる。
なお、dj sniffや大友の話によると、今年の海外勢は昨年度のメンバーに比べてかなり親密になっていたそうで、幾度となく酒を酌み交わしては時間を忘れて語り合っていたらしい。そのように関係性が深まることによって、最初の公演では手探りかつ遠慮気味だったセッションもより濃密なものになっていったという。一度かぎりのセッションではなかなかこうはいかないわけで、そうしたプロセスを観客側にも楽しませてくれるのもAMFならではだろう。
また、今回も出演アーティストのクレジットには国籍ではなく都市名が記載されていたが、都市の形が常に流動的であるように、そこに生きる人々のアイデンティティーも流動的である。アジアの都市部で生きる多様な音楽家たちの出会いを用意しながら、音を通したアジア間の新しい「出会い方」のイメージも提示するAMF。その楽しさと意義をあらためて実感させてくれた素晴らしい公演だった。
大石始(おおいし・はじめ)
音楽雑誌編集者を経て、2007年5月から約1年間の海外放浪の旅へ。帰国後はフリーランスのライター・編集者・DJとして活動中。各媒体やワールド系を中心にしたCDの解説などで執筆するほか、トークイヴェントやラジオ出演も多数。著書に、『関東ラガマフィン』(BLOOD)、『GLOCAL BEATS』(共著、音楽出版社)、『ニッポン大音頭時代』(河出書房新社)。異国の地で味わう音楽と酒をこよなく愛する南国愛好家、重度の旅中毒患者。