Asian Meeting Festival 2016 1st Day in Tokyo 初日の数時間の場所から 福永 信

初日の数時間の場所から福永 信

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 「会って数時間なんです」と男は言った。アジア各地から、音を鳴らしに集まって来た、この日のこの時間が終わったときのことだ。
 出演者の全員が、まだわずかな時間を共に過ごしただけで、本番を迎えて、その本番が2時間ほど、今、終わった。
 今、出演達は演奏を終え、ステージから姿を消していた。「会って数時間なんです」と言った男は、プロジェクト・ディレクターのひとりだったことから、終わりの挨拶を述べたわけだ。
 今、ここで、さっきまで鳴っていた音が、ひとりによってのみ奏でられる、ソロ演奏であったら、「会って数時間」であろうが、なかろうが、自分ひとりだけが、おのおのひとりずつが、自分の演奏に集中するだけのことだ。しかし、この時間、この場所で、ついさっきまで行われていたのは、アンサンブルだった。「会って数時間」の演奏者達が3人ほど、ユニットを組んで、協演した。そんなユニットが、次々と現れた。ある者は、ガラスのボウルで回転する玉から音を発生させ、ある者は、大きなビニールを、それが最前列の観客の膝の上にまで乗りそうなほどにふくらませ、ある者は、ギターをかき鳴らし、ある者は鐘を鳴らし、ある者はサクソフォンを奏で続け、ある者はポーカーフェイスでツマミをひねり続けた。一つの音が、別の音に当たって、摩擦する音が、会場の壁や床や天井や、人の肌にぶつかって、跳ね返った。それらは、一つとして、単独では聞こえてこなかった。
 今、それらの演奏は終わり、音はどこからも聞こえてこない。ステージにいた人達の姿が消えたのと同時に、音も消えた。人がいたから、音が鳴っていた、そう信じることができた。ひとりだけ、その場に残った男が、「会って数時間なんです」と述べたわけだ。
 ステージといっても客席と地続きだった。ギターが数本立てかけてあった。コンピュータがあり、配線が垂れ下がり、それがマイクにからまり、床を這っていた。スピーカーがあった。つまり、ここで、演奏が行われた、その証拠が残された。出演者はいない。音はもう鳴ってない。
 音はもう鳴っていない。その場所を、観客席が取り囲んでいた。
 客席には人がいた。満席だ。音はもう鳴り終わっていたが、ステージに残った男を見つめ、「会って数時間なんです」と言うのを聞いていた。もちろん、この男、「会って数時間なんです」とだけ、言っていたわけではなかった。この日のこの時間が終わるにあたって、挨拶を述べていたのだ。観客はそれを聞いていた。彼の声を聞きながら、「会って数時間なんです」と言ったその「数時間」が、今、少しずつ、積み重なりつつあり、やがて、明日になり、明後日になり、1週間ほどが経過することを思っていた。その1週間ほどのあいだに、鳴り続ける音のことを。
 今、「会って数時間なんです」という台詞を聞いている観客の後ろには、数台の録音、録画機材が、舞台に向けられて、並んでいた。演奏の最初から最後まで、男の台詞、「会って数時間なんです」を含めたすべてを、記録していた。この日のこの時間は、編集され、アーカイヴされて、YouTubeで見られることになるという。
 「会って数時間なんです」と男が言ったのは、別に言い訳ではなかった。会って数時間にもかかわらず、こんなに団結した音が鳴り、充実した時間をこの場に生み出した、そのことを自慢したわけでもなかった。それは、たんに事実を述べただけだった。「会って3時間なんです」でもなければ「会って1時間なんです」でもなかった。「数時間」と、あいまいな表現だった。「数時間」としたのは、アジアの各地から、ぞろぞろと、あるいは、ゆったりと、自分が鳴らす予定の音を携えて、「楽器」と共に、この場所に集まって来たからだ。ある者は、ひさしぶり、ある者は、はじめまして、そんなふうなひとこと、ふたこと、あるいはもっと、言葉をかわした。必ずしも英語が頼りにはならなかった。自己紹介の代わりに、自分の音を鳴らした。それがリハーサルになった。「会って数時間」はそんなふうに過ぎていった。そんなことが、「会って数時間なんです」という男の台詞から、想像できた。
 「会って数時間なんです」は、演奏者達が、という意味の台詞だったが、男の最後の挨拶も終わった今では、観客席の誰もが自分らのこととして、口に出せた。観客も、それぞれの場所からここに、この時間、集まって、今、帰ろうとしているところだ。演奏時間は全部で2時間ほど、だから、観客が、演奏家達の音を聞いていたのもそれと同じ時間だった。
 今も、観客の目の前には、ギターが数本立てかけてあり、コンピュータがあり、配線が垂れ下がり、それがマイクにからまり、いくつも電球がぶら下がり、床に亀裂が走り、スピーカーがあり、ペットボトルがあり、つまり、ここで、演奏が行われた、その証拠が残されている。音はもう鳴ってない。いや、音は鳴っている。出演者は、観客と混じり、談笑し、あるいは、観客は、物販スペースでCDやレコードを手にとり、もしくは観客は、フードやドリンクを買うために財布から小銭を出し、その場をなかなか立ち去らず、今、もはや、誰もが音を出していた。

福永信(ふくなが・しん)
1972年生まれ。著書に『アクロバット前夜』(リトルモア)、『コップとコッペパンとペン』(河出書房新社)、『星座から見た地球』(新潮社)、『一一一一一』(河出書房新社)、『三姉妹とその友達』(講談社)、『星座と文学』(メディア総合研究所)、『こんにちは美術』1~3(編著、岩崎書店)など。