トゥ・ダイ

トゥ・ダイ

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インタビュアー=大石始

○ノイズのメッカへの巡礼?!

――今回のプロジェクトに参加した感想をお聞かせください。

 素晴らしいアイディアだと思います。東南アジアではノイズ系の音楽をやってるアーティストが小さな町ですら雨後の筍のようにどんどん増えていて、インドネシアでもそうした音楽をやっている人たちは多くなってるんです。ただ、みんなバラバラに活動しがちなところがあるので、今回のように日本で一緒にやらせてもらうことに意味があるんじゃないかな。日本はノイズのメッカみたいな場所なので、僕自身、メッカに巡礼させていただいているような気持ちもありますし。

――では、日本のノイズ系アーティストで特にリスペクトしているのは?

 メルツバウ、非常階段、Corrupted、あとはSETE STAR SEPTですね。彼らはインドネシアでも2回ツアーをやってるんです。

――ところで、今回のライヴ・パフォーマンスで使用していた機材はなんですか?

 自作のオシレーターとモジュラー・シンセ、マイク、ピエゾ(圧電素子)、ウォークマン、あとはアタリ・パンク・コンソールというアナログ・シンセです。

――ウォークマンの中にはどんな音源が入ってるんですか。

 ラジオの放送です。

――インドネシアのラジオ放送?

 いや、あのときは東京のラジオをそのまま受信して流してましたね。ミキサーを通して、ディレイとディストーションをかけて。

――ふだんのライヴ・パフォーマンスも同じようなセットでやってるんですか?

 今回の日本公演向けのスペシャルなセットなんです。通常は2種類の音源でやってるんですけど、今回は3種類目としてモジュラー・シンセを入れたので、そういった点においてはスペシャル・セットです。モジュラー・シンセも特別製の世界にひとつしかないものを使いました。

○ジョグジャカルタのパンク・シーン

――ご本名はインドラ・メヌスさんで、このトゥ・ダイというのはソロ・プロジェクトの名前ってことですよね?

 そうですね。98年にこの名前でやり始めたときは3人組で、もう少しノイジーなパンク系、たとえばマン・イズ・ザ・バスタードみたいなものをやってたんですけど、メンバーのひとりは故郷に帰り、ドラマーは亡くなってしまったので、今はひとりでやってるんです。

――ベーシックなバイオグラフィーを確認したいんですけど、お生まれはジョグジャカルタですか。

 生まれは中部ジャワのプルウォレジョ(Purworejo)というところです。4歳の時にジョグジャカルタに出てきて、それ以来ずっと住んでいます。

――音楽にハマったきっかけはなんだったんですか。

 僕の場合はパール・ジャムです。ラジオやテレビで海外のロックに触れる機会はあまり多くなくて、パール・ジャムはヒットしていたからかかってたんでしょうね。それからさまざまな音楽を探っていくうちにパンクの素晴らしさに気付き、現在に至っています。

――一番最初に好きになったパンク/ハードコア・パンクはなんでした?

 グリーン・デイですね。93年だったと思います。彼らが日本でやったライヴの映像を放送してたんですね、それをたまたま観て、それからアルバムを聴くようになりました。アンダーグラウンドなパンク・バンドの音源は当時手に入りにくかったんですけど、グリーン・デイはメジャーなバンドなのでインドネシアでも音源を手に入れることができたんです。それから自分でも音楽をやるようになって。その頃は楽器もロクに弾けなかったので、とりあえず〈誰よりもデカイ音でやる〉ということを目標にしてました(笑)。

――トゥ・ダイを98年に始める前は音楽活動はしてなかった?

 高校では友達たちと多少バンドっぽいこともしてましたけど、作曲や録音をしてたわけじゃないくて、ちょっと音を出して遊んでるぐらいの感じですよね。

――トゥ・ダイを始めた当初、インドラさんはなんのパート担当だったんですか。

 ベースと歌です。

――ところで、ジョグジャカルタのパンク・シーンはいつ頃から始まったんでしょうか?

 95、6年だと思います。まだみんなカヴァー曲をやってて、パンクといえばモヒカンでブーツで......という時代。なにせ入ってくる情報も少なかったですからね。誰かがセックス・ピストルズの音源を持っていたら、それをテープにダビングしてもらって、それを聴きながら練習する、みんなそうやって活動してました。ジャカルタなんかに行くときは生のカセットテープをたくさん持っていくんですよ。それで友達から片っ端からダビングさせてもらうわけです。外国に行った友人にパンク系のファンジンを買ってきてもらって、それをコピーしたり友達に配ったり、そういうこともやってましたね。98、9年には時分でもファンジンを作って、パンク系の記事を自分で書いたり。

――そのファンジンは何部ぐらい刷ってたんですか。

 20部とか50部とか、それぐらいですよ。その日の気分で人にあげたり、他のファンジンとトレードしたり。当時は自分自身アナーキズムに傾倒してたんです。

――当時から活動を続けてるバンドは結構いるんですか。

 そんなに多くはないですけど、サムシング・ロングというバンドとか15ぐらいはいます。

――インドラさんがパンクからノイズやエクスペリメンタルな方向に向かったきっかけはなんだったんですか。

 ハードコア/パンクとノイズ/エクスペリメンタルの橋渡し役をしているようなマン・イズ・ザ・バスタードを聴くようになったのが大きいと思います。ハードコア・パンクには3つの譲れない要素があると思っているんですね。それはルーツとキャラクター、それとアティテュードです。ハードコアからノイズへと僕自身のアウトプットは変わってると思うんですけど、そこに関してはブレていないつもりでいます。あと、2000年代半ばにハードコア・パンクが急に流行り出して、メインストリーム化しちゃったんです。その一部に取り込まれたくないという思いがあって、それで現在のような表現になってきたんですね。それまではパンク系の音楽というと、既存の音楽に対する脅威みたいな感じで受け止められていたんですけれども、そうじゃなくても、パンク系がインドネシアの音楽業界の中心になってしまった。なにせ僕らは長くやってますので、急ににわかパンクスが増えてくると、つい〈俺らは違うから〉と言いたくなってしまうんです(笑)。

――あと、バイオグラフィーを見ると、2002年にレラマティ・レコーズ(Relamati Records)という自主制作レーベルをスタートしてますね。

 そうですね。当時、自分たちの音があまりに爆音かつノイジーだったんで、どのレーベルも音源を出してくれなかったんですよ。それで自分たちで始めたんです。

○ジョグジャ・ノイズ・ボミング

――ライヴはふだんどのような場所でやってるんですか。

 ジョグジャカルタのシーンは異なるジャンルでも関係が密で、どこで誰がどんな活動をしているかというのはみんな知っているぐらいなんです。ただ、日本みたいにライブハウスとして定期的ライヴ・パフォーマンスをやってる会場というのはなくて、いつも新しいところを見つけてはそこでやってみて、という感じです。スタジオのときもあれば小さなカフェの場合もあるし、バーや山小屋、公民館みたいな場所のときもある。自分でも時々イヴェントのオーガナイズをやってるんですけど、それは閉店したレストランの跡地を使っていて、DJ sniffさんに出てもらったこともあります。電源は確保できるんですけど、違法と言えば違法ですよね(笑)。

――そのイヴェントがジョグジャ・ノイズ・ボミング(Jogja Noise Bombing)?

 そうです。4年前からやってまして、今までに3回開催しました。この後4回目をやることになってるんです。ノイズ/エクスペリメンタル系のアーティストがインドネシアに来たとき、来訪記念セッションみたいな形でやってもらうこともあります。ジョグジャカルタはアートの街なので、来てくれるお客さんはアート関係の人が多いですね。通常の音楽とは違うものが鳴るので、ありきたりのポップスでは物足りない人たちが集まってくれてるんです。

――ジョグジャ・ノイズ・ボミングの映像がYoutubeにアップされてますけど、ものすごく面白そうですよね。行きたくなりました。

 ありがとうございます。誰が来てくださってもかまわないので、ぜひいらしてください。

――ジョグジャ・ノイズ・ボミングはイリーガルに開催されているわけですが、このような形でイヴェントを開催するにあたっては何らかの政治的な意識があるんですか?

 〈政治的〉の定義次第ですね。香港の傘革命のように反対の意識をはっきり出したものではないですし、ある意味では政治を関係なくやりたいことをやるというものであって、政治的なメッセージかというとちょっと違うかもしれないです。

――先ほど90年代にはアナーキズムに傾倒されていたとおっしゃってましたよね。ジョグジャ・ノイズ・ボミングの活動にアナーキズムの影響はあるのかと思いまして。

 なるほど。90年代の終わり頃は僕もまだ若かったですし、アナーキズムに傾倒していたのは間違いないです。ただ、年齢を重ねるにつれて願わくば賢くなっているはずで、年を取るほどに〈アナーキズムってなんだろう?〉と考えるようになりました。そこで思ったのは、アナーキズムというのは〈何もかもをブチ壊す〉ということでもなければ、もしくは政府の何かに反対するということでもなくて、あるものに対するオルタナティヴを見つけていくことなんじゃないかなって思うんです。なので、僕らは政府に反対して不法な活動をしているわけではないし、〈会場を用意しろよ〉と文句を言ってるわけでもなくて、〈自分たちで会場を作ればいいじゃん〉というスタンスでやっているんです。

――それこそがパンクのDIYカルチャーからインドラさんが受け継いだものでもあるわけですね。

 その通りです。

――今のジョグジャカルタのシーン、特にノイズやエクスペリメンタル、ハードコアのシーンの現状についてはどう思われますか。

 90年代末の段階でロックにノイズを足したようなスタイルのバンドはジョグジャカルタにもいたんですね。その中心になっていたのはアート系の人たち。それが5年ぐらい前からアート系ではない人たちがノイズの世界に入ってくるようになって、ノイズ・ロック系ではなく、ピュア・ノイズのパフォーマンスを始めるようになったんですね。そうした流れが融合しつつあるのがジョグジャカルタの現状だと思います。もともとアート系/音楽系は分かれていたので、もっと融合が進めばさらに面白くなっていくんじゃないかと思います。いずれも30代手前ぐらいの世代が多くて、最近は90年代生まれが多いです。

――今のジョグジャカルタのシーンでインドラさんが面白いと思うアーティストがいたら教えてください。

 ラブー(Rabu)というバンドはいいと思います。あとはネオ・フォーク系のセニャワ(Senyawa)。彼らは日本でもライヴをやったことがありますね。今のインドネシアにはフォーク系の面白いアーティストが結構出てきてるんですが、主流のシーンとは異なるところからそうしたバンドが出てきてるんです。

――ノイズ/エクスペリメンタル系ではどうですか。

 ドローン系の男女デュオ、サルファ(Sulfur)は面白いと思います。日本のルインズが去年ジョグジャカルタでライヴをやったんですけど、同じ日に共演したりしてました。サルファは去年のジョグジャ・ノイズ・ボミングにも出てもらったんですよ。

――では、最後にいくつか質問させてください。今後の活動に対するヴィジョンやイメージなどがあれば教えてください。

 東南アジアをツアーしてネットワークを作りたいと思ってるんですよ。例えばノイズ系のアーティストがない町にいって、僕らのパフォーマンスを聴いてもらったり。シンガポールやマレーシアのシーンはインドネシアとも近いので、ネットワークを作りやすいと思うんですよね。あと、今回のプロジェクトで一緒になったアーティストとも今後何かやっていけたらと思ってます。

――今回のプロジェクトではさまざまなバックボーンの人たちと共演したわけですけど、他のアーティストとの間で何か共通した感覚があったとすれば、それはどのようなものでしたか。

 パッションだと思います。東南アジアで音楽活動をするというのは、それほど実入りのいい商売じゃないんですよね。それなのに、みんな地道な活動を続けている。パッションがないと続けられないですよね。