ビン・イドリス
インタビュアー=大石始
○イスラム教とアメリカ文化
――まず、今回のプロジェクトに参加した感想をお聞かせください。
とても興味深くてエキサイティングな経験をさせてもらいました。初めてお会いする異国のアーティストばかりでしたし、多くの方が僕とはまったく違うアプローチをとっていたので、とてもいい経験になりました。
――ああいうギターのパフォーマンスというのはふだんやっていらっしゃるスタイルとは別のもの?
ひとりでインプロヴィゼーションをする機会もあるんですけど、今回は他のミュージシャンも参加しているので、自分だけ音を大きくして彼らの音を殺してしまうわけにはいかない。そういったバランスを考えながら演奏するという点においては、いつもとちょっと違ったかなとは思います。僕はソロの活動のほかにシグムン(Sigmun)というロック・バンドもやっているので、彼らとはよくインプロヴィゼーションをやってるんですね。ただ、今回参加したアーティストの多くは僕と違うアプローチで音を出していたので、全体のストラクチャーを自分なりに考えながら、そこに音を投入していくような演奏になりました。自分でもちょっと手探りだったところがあるんですけど、そういった意味でもとてもいい経験をさせてもらいました。
――なるほど。では、ここから基本的な質問をいくつかしたいのですが、お生まれは何年ですか。
89年にデポック(註 西ジャワ州の都市で、ジャカルタの近郊)で生まれました。その後バンドン(註 西ジャワ州の州都)の大学に通って、今もバンドン在住です。
――デポックはどういう町なんですか。
バンドンとデポックを比べると、バンドンのほうが音楽関係のイヴェントやアート関係のエキシビジョンが行われることが多くて、デポックよりも都会的な場所ですね。デポックはちょっとのんびりした町。ただ、国内最大級のインドネシア大学デポック校があるので、徐々に成長を遂げています。基本的にデポックはベッドタウンで、街遊びをするときはみんなジャカルタに行くんですよ。渋滞していなければ車でも1時間かからず行けますから。
――ジャカルタではなく、そんなデポックで育ったことがイドリスさんに音楽的影響を与えた部分はありますか?
かなり影響は受けたのではないかなと思います。デポックにはイスラム教徒が多く住んでいて、かなり宗教色の強い町なんです。僕自身、中東の音楽やイスラム教の詠唱(アザーン)に影響を受けていますし、デポックに生まれていなかったらそこまでの影響を受けることもなかったかもしれません。
――そうしたイスラム系の文化には子供のころから当たり前のように接していた?
そうですね。僕の両親はどちらも敬虔なイスラム教徒で、父はかなり中東の文化に傾倒してるんです。僕も生涯を通してよきイスラム教徒でありたいと考えていますし、僕にとっての音楽とは、自分がイスラム教徒であるというのはどういうことかと受け止めたり、もしくは瞑想したりするための手段のひとつなんです。かなりスピリチュアルな側面が強いんですよ。
――なるほど。では、初めて手にした楽器というのはなんでした?
キーボードだったと思います。ただ、おもちゃの鍵盤楽器ですね。歌を初めて作ったのは5、6歳の頃で、ハミングや歌である程度骨組みを作ったら、翌日にそれを思い出してさらに肉付けをして......という作業を5、6歳の頃からやってました。
――当時どんな歌を作ってたか覚えてます?
いやー、覚えてないですね(笑)。
――音楽を作りたいという欲求を5、6歳から持っていたわけだから、かなり早熟ですよね。
ただ、きちんと音楽をやりだしたのは高校に入ってからですよ。初めてギターに弾いたとき「ああ、僕がやりたかったのはこれなんだ」と思いましたね。最初は全然弾けなかったんですけど、その時期からギターでの作曲はやってましたし、高校時代に作った曲のなかでもきちんとした曲の形で残っているものもあるんですよ。
――高校生のころ、どのような音楽を聴いていたんですか?
世代的にはやっぱりグリーン・デイですよね。ギターで初めて弾けるようになった曲も「Basket Case」(註 グリーン・デイが94年に発表した楽曲で、世界中で大ヒットを記録した)だったと思います。その後ブルースにかなりのめり込みまして、自分のバックボーンにはブルースの影響もあるんですよ。
――グリーン・デイみたいなアメリカのポップ・パンクのカヴァーもやってました?
やってましたね(笑)。ただ、まだまだギターもヘタクソだったので歌専門ですけどね。
――ブルースのアーティストでは誰が好きですか。
ロバート・ジョンソンやサンハウスとか。デルタ・ブルース系がすごく好きでした。デルタ・ブルースって素朴でありながら感情が豊かなんですよね。聴いた感じはソフトかもしれないけど、内に荒々しいものや熱いものを秘めている。僕は感情という要素を表現経路のひとつとしてすごく大事にしているんですけど、そういう部分はデルタ・ブルースから受け継いでいるのかもしれませんね。
――グリーン・デイにしてもロバート・ジョンソンやサンハウスにしても、全員アメリカのアーティストですよね。インドネシアのアーティストよりもアメリカのアーティストからの影響のほうが強い?
確かに自分でもアメリカからの影響はかなり大きいと思います。ただ、そういったアメリカ系の音楽に傾倒する前はインドネシアのミュージシャンからも影響も受けましたよ。成長するにあたってそうしたミュージシャンのルーツを掘り下げたり新しい音楽から影響を受けたりしながら、現在に至ってるんです。アメリカ文化の影響を受けやすかった理由のひとつとしては、僕らの世代ぐらいからテレビを通じてアメリカの文化にアクセスしやすくなったんですよ。僕自身、MTV世代だと思いますしね。
○シグムンとビン・イドリス
――ちなみに、バンドンの音楽シーンはどういう傾向にあるんですか。
バンドンは以前からポストロック系が強いんですよ。あとはブリットポップ。ポストロックに関してはジャカルタよりもバンドンですね。ただ、バンドンのシーンは内向きの傾向があって、なかなか外に出ていかない。どうも仲間内で固まっちゃうんです。なので、全国的に知られるバンドが少ないんです。その点でいえばジャカルタのほうがオープンですね。あと、ジャカルタとバンドンは気温も違っていて、バンドンは緯度が高いので気温が低い。それに対して、ジャカルタはかなり暑いんですね。そういう気候の違いが音楽性にも影響を与えているんじゃないかと思います。バンドンはアンビエント系というかアトモスフェリックな感じの音楽が多いですし、ジャカルタはアンダーグラウンドなメタル系が強い。
――バンドンとジャカルタの交流は盛んなんですか。
盛んですね。自分がやってるシグムンにしてもジャカルタとバンドンと両方でやってますし。
――イドリスさんはジャカルタよりもバンドンのほうが肌に合う?
よく聞かれるんですけど、やっぱりバンドンかなあ。
――なるほど。イドリスさんのキャリアの話に戻りたいんですが、大学でバンドンに移ってから本格的な音楽活動を始めるわけですね。
そうですね。高校生の頃、S.I.G.I.Tという地元のガレージ・ロック・バンドを知ったんです。バンドンでライヴを観たら、それがまた凄くて。大学に入ってからS.I.G.I.Tみたいなバンドをやりたくて、大学の友達とバンドを組んだんですよ。
――そのバンドがシグムン?
そうですそうです。それが2009年ですね。
――S.I.G.I.Tはバンドンの若者たちの間で絶大な人気を誇ってるバンドなんですか。
いちばん人気のあるバンドのひとつだと思います。インドネシア全体で見てもかなりイケてるほうじゃないかな。メジャー・レーベルに所属しているメインストリーム系のバンドじゃなくて、バンドンのインディー・シーンを象徴するバンドというか。バンドンには彼らの前に先駆者的バンドがいくつもいましたけど、僕らの世代にはS.I.G.I.Tに影響を受けたバンドが多いですね。
――これは基本的な質問なんですけど、〈ビン・イドリス〉というのはご本名じゃなくて、ソロ・プロジェクトの名前なんですよね? ハイカル・アジジさんというのがご本名だとか。
〈イドリス〉というのは父の名前で、〈ビン〉というのはアラビア語で〈息子〉という意味なので、〈ビン・イドリス〉というのは〈イドリスの息子〉という意味なんです。
――では、シグムンの活動と平行してビン・イドリス名義で活動を始めたのはいつ頃?
命名こそ2012年ですけど、〈ビン・イドリス〉としてやってるようなパフォーマンスや音楽はかなり昔からやってるんですよね。たまたま〈ビン・イドリス〉と名乗るようになってから知られるようになりましたけど。
――ビン・イドリス名義の音楽はシグムンに比べて、より瞑想的なフィーリングを持っていますよね。先ほどイスラム教徒としての意識についてお話いただきましたけど、イスラム教徒としてのスピリチュアリティーみたいなものがここに反映されているように思えたんですが。
イスラム教にもいろいろな宗派があって、なかには音楽自体が罪であるというイスラム教徒もいます。〈音楽は悪魔と結びついてるもの〉とする人もいるんですね。僕はむしろ音楽を通して神に近づきたいという思いを持っていて。音楽を使って人に説教しようというつもりは毛頭なくて、イスラム教徒としての精神世界というものを音楽を通して表現していきたいと思っているんですね。
――ビン・イドリス名義ではバンドンのどのような場所でライヴ・パフォーマンスをやっているんですか?
僕の音楽は静かな空間が必要なので、アート・エキシビションのオープニングとか小規模なものが多いです。お客さんとの距離はかなり近いですね。
――そういった場所で他のジャンルのミュージシャンとセッションすることもあるんですか。
ありますね。バンド単位になるとそういうセッションもやりづらくなってくるので、それでソロ・プロジェクトを始めたという理由もあるんです。僕ひとりであれば誰とでもコラボレーションすることができる。ラッパーやR&Bのアーティストともやってますし、音楽のジャンルを境界線にしたくはないんです。
――先ほど同じバンドン出身のイマン・ジンボさんは、バンドンのミュージシャンの間で地元意識みたいなものが育まれつつあって、それが次第に広がってきているというお話を聞いたんですが、イドリスさんはどう思いますか?
先ほども言ったようにバンドンのバンドっていうのは仲間内で凝り固まっちゃうことが多くて、なかなか外に出て行かないんですね。それを〈地元意識が強い〉と表現することもできると思いますけど、問題点でもあるんじゃないかと。それと、バンドンのバンドはちょっと流行を追いすぎる傾向があるんですね。ストーナー・ロックがすごく流行っていたかと思うと、次はフォークだというような。移り変わりが激しいんですよ。
――では、ビン・イドリス名義なりシグムンの活動なりで、そんなバンドンの状況を変えたいという意識もあるんですか?
僕にはそこまでの影響力があるとは思ってないんですけど(笑)。音楽というのはおそらく、流れに乗って自然に変わっていくものだと思うんですね。〈変わる〉ことはあっても、〈変える〉というのはちょっと違う気がする。たとえば、政府が音楽を禁止しても、音楽がなくなるということは絶対にないわけじゃないですか。〈やめろ〉と言われてもなくならず、ずっと生き延びていく。そこが音楽の面白さだと思います。環境の変化に適応しながら変化していくそのありさまが面白いんです。
○新しいことに挑戦しつづける
――今後の活動に関してはどのようなヴィジョンやイメージをお持ちですか?
すごくシンプルな答えになっちゃうんですけど、今回のプロジェクトでやってるみたいに、違ったバックグラウンドを持ったミュージシャンと一緒にコラボをしながら世界中で演奏ができたらいいですね。それを通して自分の視野なり文化的な造詣を深めていきたいです。
――今回のプロジェクトではさまざまなバックボーンを持つミュージシャンと共演したわけですけど、バックボーンも国籍も違う中で何か共通した感覚がみなさんのなかで生まれたとしたら、それはどのようなものでした?
一番共通してると思うのが、どのミュージシャンも自分たちの音楽を他の国の仲間たちと共有したいと思っていたということですね。そのうえで、みんな新しいことを挑戦したいと思っている。そこが共通項でしょうか。
――イドリスさんもどんどん新しいことに挑戦していきたい、と。
そうですね。いま自分でオレンジ・クリフ・レコーズ(Orange Cliff Records)というレーベルもやってるんですよ。ストーナー・ロック系が中心ですけど、基本的には特定のジャンルに縛られないようにはしたいと思っていて、バンドンとジャカルタ両方のバンドをリリースしています。
――オレンジ・クリフ・レコーズを立ち上げたのはいつなんですか?
2012年ですね。インドネシアのバンドはレコードで音源を出すのが最終目標的なところがあるので、その後押しをしたいと思っていて。
――レコードというのはヴァイナルということですよね?
そうですそうです。最近、ヴァイナルをリリースするバンドが増えてるんですよ。昔のレコードを蒐集するコレクターも増えてますし、ジャカルタには中古盤を扱うレコード店も多いんですよ。