○電子音楽研究所STEIM
――これまでの経歴、活動歴を教えてください。
dj sniff:アメリカで生まれて日本で育ちました。17歳でDJを始め、その後にイベント・オーガナイズも始めて、音楽と場を作ることをいつも平行してやっていました。
13年前に、アーティストになりたいっていう思いでアメリカに戻り、その後9年前にオランダのSTEIMという電子音楽研究所に行きます。そこでも数年するうちにオーガナイズをするようになって、コンサートのキュレーションなどを始めるわけです。
今回、僕の活動はアーティストとしての仕事とキュレーションです。もともとまだオランダにいる頃に、大友さんに2009年のアジアン・ミーティング・フェスティバルに呼んでもらって、そこで初めてアジアや日本のシーンのミュージシャンと出会うことになりました。
僕にとってアジアン・ミーティング・フェスは重要です。まず、吉田アミさんや山本達久くんなどの日本の実験音楽/即興音楽シーンに一気に紹介してもらうことになったこと。そして同時にそこでアジアのミュージシャンともたくさん出会いました。これをきっかけにお互い演奏に誘ったり、彼らがヨーロッパに来たときに、STEIMに呼んでコンサートをしてもらったりしました。
そのときからアジアのコンテキストを考えるようになりました。同時にアジアをフィーチャーすること、僕が日本人としてヨーロッパで活動することに伴うオリエンタリズムやエキゾチズムみたいなものが気になってきました。欧米では避けられないものなんです。ただ、それのおかげでそういったアジアをテーマにしたイベントは非常に人気もあって、それこそ音楽をよくわからない人でも興味があってやってくるのです。だから葛藤してました。たとえば、僕がSTEIMにヤン・ジュンなど4人の北京在住の音楽家を招聘し演奏してもらった時は大盛況でした。
2011年に、ワン・マン・ネイションというシンガポールのアーティストをサポートしたんです。彼がインドネシアで伝統音楽と現代音楽の融合についてリサーチをしたいというので、STEIMが3ヶ月住めるくらいのお金をサポートしたんですね。そのとき彼が見つけてきたのが、イマン・ジンボットさんと、ウキル・スルヤーディさんって方です。ワン・マン・ネイションが3ヶ月の滞在を終えた後に3人をオランダに呼んで、ツアーをしたんですが、それもすごく評判となりました。
ですが、もう最後の方は、ヨーロッパが嫌になってきました(苦笑)。どんなに演奏する機会が多くても、また自分の企画するものが人気があっても、自分の音楽のコンテキストがヨーロッパにある気がしなくなってきたんです。それで3年前に香港に移って、大学で教えながら、イベントを企画したり、できるだけアジアで演奏活動をしようと思いました。そんな時期に大友さんから話がきたんですね。僕は以前からインドネシアに行きたかったので、昨年の10月にリサーチをして、今回登場するアーティストたちを見つけたわけです。
――STEIMというのはどんなところですか?
dj sniff:1969年に設立された電子音楽研究所スタジオです。電子音楽の歴史、戦後の電子音楽の発展って、スタジオ、特にラジオ局、放送局、もしくは大学の研究室とともに進んできたところがありますよね。STEIMの場合、それとどう違うかというと、独立の研究機関で、国の助成金を受けたアーティストが発足した独立したスタジオというのが特徴なんです。
もうひとつの特徴は、ライヴ演奏をするための電子楽器に主眼に置いていたこと。当時の60年代の学生運動の影響もあるんですが、電子音楽は、オーソリティと繋がったインステュトューションの中でしか行われないので、一般の人はなかなか体験することも習得することもできない。さらに、コンサートを観に行っても、テープ・コンサートといって演奏者がいない状態なので、観てても全然面白くない(笑)。それに対するアンチテーゼとして、どうやったらステージで電子楽器を使ったステージで演奏できるのか模索を始め、彼らは数年後にすごく有名になりました。たとえば、ミニマル・ミュージックの大御所ルイ・アンデルセンやピーター・スキャット。ミシャ・メンゲルベルグも創始者の一人です。それからオフィシャルではありませんが、ディック・ライマーカスも関わっていました。ヨーロッパの電子音楽の中ではもっとも重要な人です。その彼らより少し若い世代にあたるのが、ミッシェル・ ヴァイスヴィッツ。2008年に亡くなりましたけど、僕の恩師にあたる人です。こういった人たちが、60年代から70年代終わりまでわりとルースな感じで集まって、プロジェクトを進めていきながら、国から助成金をもらって活動していました。80年代以降はヴァイスヴィッツがディレクターに就任し、世界的な機関になっていきます。
当時、電子楽器によるライヴ演奏に注目するといっても、まだ楽器もなければ、コマーシャルな市場もできていない。そうすると自分たちで発明しなくてはならないわけです。 アーティストがエンジニアと一緒になって、あるアイディアを具現化することがモットーで、それがいまでも続いていると同時に、アーティスト・イン・レジデンシーなどのかたちでアーティストをサポートもしています。世界でも独立でやってるのはここだけですね。
電子楽器のライヴ演奏については、今でこそパソコンが速くなってきたおかげで主流になってきましたけれど、STEIMのピークは80年代半ばから90年代半ばくらいで、当時は世界中の人たちがそこでしかできないということで集まってくる場所でした。
○巨匠たちに囲まれて
――そうした中で、有名な電子音楽のプレイヤーというと、どんな方になりますか?
dj sniff:先にもあげたミッシェル・ ヴァイスヴィッツでしょうね。彼は60年代の終わりから70年代に、ヨーロピアン・フリージャズ、インプロヴィゼーションが生まれたときの一番最初の電子音楽奏者です。彼は、クラックル・ボックスという装置を使って、電流に身体を繋げて自らが回路の一部になることで、音をコントロールできるシンセサイザーを発明したんです。それを使って、ICPの人たち、たとえばミシャ・メンゲルベルクやハン・ベニンク、あるいはスティーヴ・レイシーやペーター・ブロッツマンと共演しています。ヨーロッパのフリーミュージックの中で彼が一番有名な電子音楽奏者ですね。僕もものすごく影響を受けてました。電子楽器やターンテーブルを使って、いかにインプロヴィゼーションをやるミュージシャンと同じくらいの柔軟性と速度と表現性をもって対抗できるのかという点で、彼は大きな指標になりました。
――ヒュー・デイヴィーズはそういうところには関わっていましたか?
dj sniff:ヒュー・デイヴィーズは、80年代にはSTEIMに来ていました。ヨーロッパのインプロヴィゼーション・シーンやニューヨークのダウンタウン・ミュージック・シーンからも、人がさかんに来てましたね。そのもうちょっと後には、エレクトロニカのような、マウス・オン・マーズのヤン・ヴェルナーが一時期ディレクターをやっていたので、そういう人たちが来たりとか。
ミッシェル・ヴァイスヴィッツは、作家活動と組織のリーダーとしての仕事を同時に進めていましたが、組織の運営という点で意識していたのは、外からの影響を入れていくことということでした。具体的には、ゲスト・ディレクターをどんどん入れていったんですね。そうすることで新しいシーンと繋がっていくことを狙っていました。ヒュー・デイヴィーズや、チェロのトム・コラ、オーストラリアからジョン・ローズを呼んだり、本当にいろいろな人が通過する場所になっていました。そんな中で、僕も2007年からディレクター職につきました。当時、STEIMはすでに、あまり知られていない若いアーティストを紹介・サポートする土壌になっていましたから、その役割や伝統を引き継ぎつつ進めていましたが、同時に国からのお金がどんどん減って行く時期でもあり、まだこの組織に今でも存在価値があるのだということを打ち出しながら運営していました。
○オランダから香港へ
――オランダを離れることになった具体的な理由は?
dj sniff:一番の理由は......メシがまずい......。それも具体的なきっかけがあって、あるとき中華料理を食べに行ったんです。中華料理屋さんといっても、一、二軒しかおいしいところがなくて、僕がよく行くところはおいしいんですけど、ちょっと高めなんです。僕はそこに、つらいときとか疲れたときに落ち着くために食べに行くんですけど、行くと必ず中国人の席とその他の外国人の席が分かれていて、中国人の席がなんかすごくサービスがいいんですよ(苦笑)。無料のスープをもらったり、デザートが出て来たりとか。僕らは全然そういうのはもらえなくて、帰りに僕のパートナーと「これはクソだ!」って。
――(笑)。
dj sniff:それと、ヨーロッパが経済危機になって、文化助成が減っていくんです。それで、パブリックなお金を使わないで、でもアートやカルチャーをどうやって持続させていくかというときに、行政が無理なことを言ってくるわけですね。前衛的なことをやると同時に売れることを要求されて、何人お客さんが来たんだとか、なぜ直接有名な人、ビョークとかレディオヘッドとやらないんだとか言ってくるわけです。その中で僕は4年間一生懸命、いやいや、そうじゃなくて、こういうものは最初の何かが生まれる始まりで、そういう影響が広がっていくことで、最終的にはビョークやレディオヘッドと繋がるんですよみたいなことを言ってたんですけれど。お金を申請したり、自分のやっていることを正当化したりすることということも大変ですが、プロジェクトを申請するための予算を書いているときに、運営やスタッフにあてるお金とアーティストの制作費とギャラの割合がぜんぜん違ってきちゃうんですね。そうすると、悪魔に魂を売るような売人みたいな気持ちになってきて、それが耐えられなくなってきたんですね。それで香港に行くチャンスを見つけた時、躊躇なく引っ越したということです。
――香港は活動しやすいですか?
dj sniff:香港は何をやるにも経済と結びついていますね。特にいまは現代アートが盛んなので、世界中からいろんな人が集まってきているようです。しかも、僕みたいにあるキャリアを積んできて、次のステップを踏み出そうとしている中堅どころが多い。そういう意味では、まわりに刺激のある人がいたり、今度、M+という大きな文化施設ができるので、面白いことは面白いんですけれど。やっぱり、北京とか上海とか他の都市と比べると、文化的な面、特に音楽は盛んとはいえませんね。シーンはすごく小さいです。実験的な企画をしているのはひとりくらいですね。その彼がここ5年くらい地道に企画を続けていて、ようやく最近広がってきました。僕が着いたときはほとんどいませんでしたね。家賃も高いですし、文化の土壌としてはそこまでよくないです。
現代アートが売れるのは経済活動だからですね。中国の富豪がマネーロンダリングとして買うのは、絵画とか彫刻とか、モノに対してだけです。彼らは音楽には興味をもたないし、それからベニューを続けるには家賃が高かすぎる。うまくいかない要素がいろいろあります。ただまあ、やっている人たちはいて、僕の大学でも2年半の間にコンサートプログラムを持って、予算をつけてイベントをすること出来たので、全然ないとはいえません。でも、アジアの中で特別強いかというと、そういうわけでもない。
――映画で実験的な作品を作っている人たちとつながりはありますか?
dj sniff:返還後に産業がダメになってしまい、作家の多くが海外に流出してしまいました。映画産業の中心は北京に移り、ハリウッド的な映画を作り出しています。最近やっとインディペンデントな動きが出てきましたが。映画よりはヴィデオ・アートやニューメディア・アートが盛んですね。
○AMFをキュレートする
――アジアン・ミーティング・フェスティバルを3日間終えてみて、どんな感想をお持ちですか。
dj sniff:夢のような時間でした。1日目のサウンドチェックではハラハラしていましたけど。音楽的にうまくいくのか、メンバー同士で折り合いがつくか、お客さんが来てくれるのか。その三つのことでドキドキしていたのですが、ぜんぶクリアしたのでほっとしました。一番の収穫は、演奏する立場としても、音楽的に面白くてやりがいがあったこと。もちろん、あるかたちの決まった、わかりやすい音楽だったわけでもなく、それぞれにやっていることはバラバラだったし、うまくいかない部分もいっぱいあったけれど、そのことを気にする人がほとんどいなかったのは、これからやる上で自信になりました。
――ミュージシャンの出演順や組み合わせはsniffさんが考えられたのですか?
dj sniff:はい、僕が考えて、大友さんとチーワイに意見を聞きました。大枠は、大友さんがこれまでにやってきたことやアイディアに基づいています。
まず配置ですが、全員をバラすというのは2009年に大友さんがやったやり方で、僕はそれが面白いと思っていたんで、それを踏襲しました。それから順番の演奏の仕方。全員が流れるようにデュオやトリオで積み重なっていくというのは、昨年の8月にYCAMで試みました。アジアンミーティングの2週間前にシンガポールとバンコクでもやってみて、それがうまくいったので、今回もこれでいくことにしました。自分たちでは、うまくできた装置だと思っています。知らない人たちが一緒になったときに最悪の事態を回避する装置でもありますし、参加者が全員自分のスペース、自分がこれまでやってきたこと、それから新しいこと、実験的なことを試すことができる。これがひとつのステージで、10分やるというとなるとプレッシャーがぜんぜん違いますし、向かう姿勢も違います。それが今回みたいに自分の島/小ステージがあって、どんなことをやっても観客は個として聴くのか全体としても聴くのかを選択できる。演奏している側も同じです。大友さんは、このやり方に早く名前をつけないと誰かに盗られてしまう、と焦っているようです(笑)。
もうひとつ、シンガポールで試したときに、同じようなメンバーでコンダクション、指揮をやってみたんですね。大友さんが大きなオーケストラでやる5つくらいの記号を使って。でも、それがうまくいかなかったんです。それを考えた上で、個性があるプロのミュージシャンには今回のやり方がフィットしているのではないかと思いました。ソロをもっと見たい、それぞれのアーティストをもっと見たいという意見もあったのですが、それを次回やるかどうかは、いま考えているところです。
――ミュージシャンの流れや組み合わせを考えるときには、どういうことを念頭に置きましたか?
dj sniff:まずは音の相性ですね。それと位置。どれだけ干渉するのか、お客さんが聴いたときにスペース的に面白い音が鳴るのかどうか。それから、ふだんなら一緒にやらないような人。その三つの条件で、一回目やってみて、うまくいった人、うまくいかない人など、それぞれの音の個性を考えて決めました。それを考えるのはすごく楽しかったですね。いろいろな素材を使って料理するみたいな感じで。米子さんが小さい音が出せるから彼で始めて彼で終わるとか、個性的で強いソロがあるビン・イドリスやユイ=サオワコーン・ムアンクルアンさんをどこに入れるのかとか、ギターやパーカッション同士を組み合わせてみるとか、いろいろ考えて流れを作りました。
京都のコンサートでは、チーワイがこういったんです。東京のコンサートでは、トゥ・ダイとグエン・ホン・ザンくんのノイズの二人の音が小さすぎて、本来の力を発揮できてないんじゃないか、控えめすぎるから何か考えようと。そこで大友さんに相談したら、最初爆音で始めて、そこからいきなり静かになろうかというアイディアが出て、そこから流れを作ろうかとチーワイと話しました。それで、最初にトゥ・ダイとザンくんとYPYくん(日野浩志郎)のノイズセットを作って、その後で流れを変えるためにレスリー・ロウを入れました。そのレスリーは2009年に出たときもすごく控えめだったので、東京の2日目は意図的に彼から始めることにしました。ほんといろいろ考えました。
逆に、ミュージシャンとして噛み合ってない、コミュニケーションしていない感じになるのが怖かったですね。それは集中力が切れるってことにつながるので、それが一番まずいかな。実は、最初の日のサウンドチェックのときはそんな感じだったんですよ。みんなが大きな音を出していて、ほかの人の音を全然聴いてない。 途中で「一番小さな音を聴こう」というのをやると良くなることがあるんですが、それをやる時間もなかったので、最初からみんな一番大きな音を出してた。コック・シューワイさんがトゥ・ダイの音が大きすぎて何も聴こえないとか、向こうの方にいるユイさんのマイクにフィードバックしてるとか。みんなが気を使ってない状態がそのまま出たら嫌だなと思っていました。
でも実際には、1日目のセットは調和がとれていて美しかった。それはみんなが気を使って控えめになったからですね。それもアジア的なことなのかもしれませんが。2日目はもっと個性が出て、ちぐはぐな部分も出てきましたが、3日目はその中間みたいな感じだったかなと思います。
○勘が勝負のミュージシャン選び
――今回のミュージシャンはどういう観点から選ばれたんですか?
dj sniff:インドネシアのミュージシャンと日本のミュージシャンは、僕が選んでいます。もちろんこのプロジェクトのディレクターで音楽ができる人は入れたかったので、大友さん、Sachikoさんと、米子匡司さんは、最初から決定していて、それから『BISING』の監督と助監督は呼びたいと思ってました。
ですから、僕が選んだのは、インドネシアから3人、日本から4人ということになりますね。基準としては、音楽性はもちろんとして、オーガナイズをしている人。シーンの中でノード的な役割をしてくれる人を選びました。その一番いい例がトゥ・ダイで、彼はインドネシアのジョグジャカルタのノイズ・フェスに僕を呼んでくれたんですよ。申し訳ないことに、みんな同じに聴こえたけど(笑)。そのときにトゥ・ダイは演奏してなかったので、僕は彼の演奏は直接観てなかったんです。でも、彼は若い世代のオーガナイザーの一人で、その中で誰を呼ぼうかと考えたときに、やはりリーダー的な彼を呼ぶことにしました。イマン・ジムボットは音楽的にも素晴らしいし、バンドンの有名なオーガナイザーなので文句なし。ビン・イドリスも生では音楽を聴かなかったんですけど、彼にバンドンで出会った時に彼が自分の大学を案内してくれて、その時に何か感じたんですね、こいつは何かあるなと直感がしたんです。『BISING』の監督に彼はどんな音楽をやるの? と訊いたら、僕の一番好きなミュージシャンだと。リサーチしたら、インプロや実験音楽ではないけれど、出たら面白いかなと。実際、ライヴでは一番評判が良かったですね。
日本からは全体のバランス、一緒に演奏しそうな人と、海外に今まであまり出ていなくて出て行きそうな人。渡辺愛さん、佐藤公哉君、KΣITO君は僕は生で一回も観てなかったんですけど、会ったときにビビっとくるものがありました。適当に訊こえるかもしれないですけど(笑)、わりと勘で勝負しているようなところはありますね。チーワイはもっと女性をフィーチャーしたいとか、シーンのなかで可能性のある人を呼んできたいといっていましたね。なので、僕の方で彼が選んでくる人との相性を考えたりもしました。
トゥ・ダイはインキャパシタンツとかノイズとかに影響も受けているのですが、あの感じでハードコアの寄りのシャウトをペダルノイズにのせたり、サウンドクラウドで聴くとアンビエントっぽいゆるやかなシャウトが後ろの方で鳴っているとか(笑)、独特で変わっていて、わけがわからない。ビンくんもストーナーロックのバンドをやっているのに、ソロはフォークで幻想的なのとか切ない感じとか、彼も変わってますね。ジムボットは誰とでもコラボレーションできるんですよ。すごいダサいブルースバンドと一緒にやってたり(笑)、いろいろやっています。またまた勘ですが、なんとかなるなと思いました。
――うまくいった組み合わせや印象に残っている組み合わせはありますか?
dj sniff:ビン・イドリスと大友さんの掛け合いは、予想通り良かったですね。ビンくんが毎日前に出て来る感じだったので、誰がそれに対抗するかというところで、目の前にいる大友さんがうまくからんでくれたと思います。組み合わせでうまくいったのは、京都でのザン君とトゥ・ダイのノイズセット。1日目の静かになる瞬間もすごく良かったし。そのうち、僕とチーワイでオーディオコメンタリーをつけて、ピックアップしてよいものを紹介していこうかなと思ってます。
アンサンブルズ・アジアでは、各プロジェクトがそれぞれの特徴を出してレポートしていくことになっているんですね。大友さんが中心になっているアンサンブルズ・アジア・オーケストラのサイトは文章が充実していて、アジアン・サウンズ・リサーチのSachikoさんはドキュメンタリー映像を作っているので、僕らのアジアン・ミュージック・ネットワークではラジオ番組的なアプローチをしようと考えています。60分の尺で今回のコンサートを振り返って、ベストアクトを紹介しようと思っています。
○親世代との即興演奏
――dj sniffさんとヨーロッパのインプロヴァイザーたちとの関わりを教えてください。
dj sniff:ヨーロッパに行く前は、アブストラクト・ヒップホップとか、ポーティスヘッドとか、ビートのまだしっかりある感じの音楽をやっていました。ニューヨークに最初に行って、自分の音楽についていろいろ考え、テクノロジーを使って試行錯誤してました。ただ基本はいつもソロ演奏でした。それがヨーロッパに行ったときに、特にオランダで生楽器と電子楽器が同じレベルでステージにあがるのを初めて見たんです。そしてそういった状況では僕が使っているツールや楽器は決定的に対応できてなかったんです。反応が遅いし、サンプリングからループを作ってもその後に何の変化も持たせられない。そこで、自分の楽器を一からデザインしたり作ったりするようになったんです。まさにSTEIMはそのための場所でもありましたし。ミッシェル・ ヴァイスヴィッツが近くにいたので、彼のICPとのもろもろの活動を調べ上げて刺激を受けましたね。
もうひとつ、使うレコードの元素材として、フリー・インプロの素材が使いやすかったんです。なぜかというと、ソロとかデュオのものが多いので、そうすると音がドラムだけ、サックスだけとか、あるいは掛け合いが多いので、僕の演奏にマッチしていたんです。それを使うと面白いループができて、実際にその人のジャンルで、その人のレコードで、その人と一緒に演奏するという僕のスタイルがしだいにできあがってきました。
それを今の50〜60代のインプロヴァイザーが面白がってくれて、僕と演奏したいと言ってくれたんですね。 初めて音楽の話ができる息子みたいな(笑)、そういう感じがあったのかもしれないですけど。そういうシーンで演奏するようになって、ポーランドで演奏したときに、エヴァン・パーカーが僕の後に演奏することになったんです。僕はリハーサル中に彼が参加しているシュリッペンバッハ・トリオのレコードを使ってリハをしていたところ、 STEIMに長年在籍しているジョエル・ライアンがニヤニヤしながらこっちに来て「レコードの話がくるかもよ」と言ってきました。そしたらしばらくしてエヴァンがやってきて、「俺のレコードを使って何かやらないか」と言ってきたのです。「ノーというわけないじゃないか」と内心思いながら「いいよ」と答えました(笑)。それで数ヶ月後にレコードを送ってくれて、「dj sniff plays Evan Parker」ができたんです。エヴァンのネームバリューはすごくて、これがリリースされたことでいろんなフェスティバルで呼ばれるようになりましたし、フリー・インプロヴィゼーションやフリージャズのシーンで僕の名前を聞いたという人が増えました。いまだにヨーロッパでまわるときはフリーインプロのサーキットでの演奏が多いですね。
――『ep』はジャケットからして傑作ですよね。『monoceros』のパロディであると同時に、タイトルはエヴァン・パーカーのイニシャルでもあるという。彼らからすると、息子というよりは新しい才能と出会いたいという思いが強いのかもしれないですね。ほかに若い世代からエヴァンの世代に突っ込んでくる人はいますか?
dj sniff:いますね。特にいまベルリンのシーンが面白くて、僕と同じ年代でも面白いプレイヤーが出てきています。ただ、僕が面白いと思うのは、むしろ西ヨーロッパ以外のミュージシャンですね。たとえば、オーストラリアだとベーシストが二人、クレイトン・トーマスとマイク・マチェロスキー。チェロだったら韓国のオックヨン・リー。アメリカのネイト・ウーリーというトランペットの人とか、C. Spencer Yehっていうヴァイオリンとノイズ、ヴォイスの人とか。それから、レバノンのベイルートに面白いシーンがあるしポルトガルも面白い。リズボンの奏者はみんな、20代後半から30代半で、彼らはエネルギッシュで、技巧派です。そのひとつ前の、大友さんの世代にあたる人たちがわりとミニマルなことをやっているのに対して、僕らはもっと勢いよくやりたいっていう気持ちがあると思います。ただ今はもうこういう音楽ではツアー難しくなっています。
――今の話をうかがっていると、大友さんが冗談で「ノイズ高齢化問題」なんて言っているけれど、若い世代の人たちがインドネシアから出てきたりしていることと通ずるものがあるような気がしますね。
dj sniff:日本にもおもしろいことやっている若い世代はいると思うんですけどね。年が離れてくると、どうしてもコミュニケーションのチャンネルが少なくなってきますから。同じような発想や上の世代の基準で測れるかどうかはわかりませんけれど。
――自分で楽器や機材を作っているというお話でしたが、具体的にどんな楽器を?
dj sniff:レコードからリアルタイムでサンプリングして、その場で新しいトラックなり楽曲を構築するアイディアが10年くらい前にあったんですが、その当時はそれができるハードウェアの機材がありませんでした。それまでサンプラーは、録音ボタンを押すと再生されているトラックが止まって、録音と再生のモードが断絶されていたんです。当時フレキシブルに再生しながら録音できるのは、 パソコンの中だけでした。そのパソコン上のソフトをコントロールするためのコントローラーを作るようになったんです。マイクロチップをプログラミングして、センサーデータをMIDIに変換してパソコンに送るようにしたり 。
でも、2005年から自分で作ったハードウェアは使わなくなってます。ツアーしているときにケーブルが壊れたりして、不安定なんですね。いま自分の楽器といえるのは、自分で書いたソフトの組み合わせと全体のセットアップということになりますね。古い市販のMIDIコントローラーとモニターのついていないMac Miniを使ってます。そんなわけで、今は直接ハードウェアの機材を作ったり、使ったりはしていません。どういうコンセプトでサンプリングという行為をパフォーマンスの中に組み込むか、流れる演奏の中に組み込んでいくかを考えた結果、いまの楽器になりました。
――アジアン・ミーティング・フェスについて、今後の抱負をお聞かせください。
dj sniff:まず、面白いアーティストを見つけて紹介したいですね。それからアーティスト間の交流を促したいです。東南アジアのミュージシャンを日本に紹介するだけじゃなくて、日本から東南アジアへ向かう方向もあるでしょうし、東南アジアの国の間でもあるでしょう。さらにはヨーロッパへ向かう方向もありますね。どこまで広げるかには問題もありますけどね。いってしまえば、アジアはイスタンブールまで含まれるわけですから。
今後はほかの東南アジアを回って、可能性のある人を紹介したり、東南アジア内で彼らが回れるようにしたいですね。今回いろいろな国を回ってみてわかったのですが、実は東南アジア内でもミュージシャン同士の交流はあまりないので、それを促すことができたらと思っています。チーワイとも話してますが、たとえば向こうでツアーを企画して、僕らが選んだアーティストを連れていくようなことができるといいなと。また、向こうでは録音がなかなかいい環境でできないので、僕らが機材を持って行って録音したり、日本でスタジオで録音できるようにしたりとか。
ともかく、なぜこれだけ苦労してオーガナイズするかといえば、やっぱり面白い人を紹介したい、人をつなげたいという欲求が強いからですよね。アジアン・ミーティング・フェスも、フェスとしてみなさんの記憶に残る刺激のあるような、ある程度は期待を裏切るようなことをしかけていきたいですね。