「ミーティング」の可能性 ーアジアン・ミーティング京都公演(2015.2.8)見聞記ー 細馬宏通
まず、客席とミュージシャンの配置が独特だった。客は円形に仕切られたエリアに床座りになり、その周りを14人の演奏者が取り囲む。スピーカーは通常のコンサートのようなステレオ方式ではなく、各演奏者のそばに置かれているので、音はプレイするミュージシャンの方角から鳴ることになる。演奏者が観客を円形に取り囲む配置は、12年前に大友良英が行った「Anode」を思い出させる。ただし、「Anode」のときは、後半に観客自身が移動して鑑賞するしくみだったが、今回は90分間、観客は定位置からの鑑賞だった。客が動かないこのやり方の方がわたしはよいように思った。定点観測することで、各演奏者の演奏の変化を、落ち着いてきくことができるからだ。
おもしろかったのは、照明システムだ。東京では、照明係がいてコントロールしていたそうだが、京都公演では、演奏者自身が自分の演奏を始めるときにライトをつけ、演奏が終わったらライトを消す方式。簡単なようだが、誰が今演奏中かがはっきりするだけでなく、14の部屋のあかりが灯り、消えるような、たくまざるユーモアが出て、よい試みだった。
演奏者の配置を反時計回りで記しておくと、 グエン・ホン・ヤン、Sachiko M、レスリー・ロウ、ルオン・フエ・チン、米子匡司、イマン・ジンボット、トゥ・ダイ、ユイ=サオワコーン・ムアンクルアン、dj sniff、コック・シューワイ、大友良英、ユエン・チーワイ、ビン・イドリス、YPY(日野浩志郎)の順。
かつては、こうしたアンサンブルでは、参加者の多くは楽器を前にしており、コンピューター演奏やDJはせいぜい一人くらいというのが相場だった。しかし、この『アジアン・ミーティング』では、サンプリングやフィールドレコーディングなどさまざまな音源を駆使する演奏者が多いのが特徴。では、そうした多彩な音色が場を支配するかというと、そういうわけではなく、おもしろいことに、彼らはどちらかといえば音のテクスチャを作っていくほうに回り、生楽器で限られた音色を奏でる人の方が目立つセッションだった。
客電が落ちると、まずグエンのそばのあかりが灯り、ぴゅんぴゅんと独特の高音を響かせながら音を塗り重ねていく。そこからおおよそ数分間ごとに反時計回りに演奏が移動していくように見えた。演奏はトリオを基調としており、さまざまな組み合わせが試みられながら合奏へとなだれこむ。
以下、いくつか記憶に残っている場面を記しておくが、あくまで私のみききした範囲であり、座る位置によっては印象が違った可能性があることをお断りしておきたい。
ビン・イドリスは生ギターと声を駆使して何度もアンサンブルを牽引するような強烈なフレーズを弾き出しており、特に大友良英のギターとの掛け合いは、ねじれたブルースのようでありながら、いままできいたことのないうねりを産んでおりすばらしかった。
そのちょうど向かい側にいるイマン・ジンボットのプレイは、実は私の席からはよく見えなかったのだが、きこえてくる笛のフレーズといい太鼓とガムランといい、特に音数の少ないときに独自の間合いを持っており、ちょっと予測のつかないプレイで、これは演じている姿も見たかった。ちなみに彼は、終演後の打ち上げでも、チャンチキおけさよろしく卓上の瓶やら皿やらを集めて箸で叩いて見せたのだが、そんな何気ない演奏(?)でも、叩くほどに音にききいるような態度で、実に魅力的だった。
米子匡司は、LEDライトを揺らしながらそのスピードに応じて光センサーを介して発せられる音を、これまた独自のタイミングで発しており、そのプレイに、一つ離れた場所からトゥ・ダイが即座に反応しながらフレーズを作って、それがアンサンブルの基調へと変わっていく瞬間もおもしろかった。
ユイ=サオワコーン・ムアンクルアンのチェロは、アジアの古楽器かと思うような優雅な音色とポルタメントを活かしたフレージングで、彼女が音を鳴らし始めると小さな音でもさっと判る。コック・シューワイの通りのよいヴォーカルは、超絶技巧をきかせるというよりは、よき会話者であり、とりわけ、会場で子どもの声がしたときに、あたかもその音調とやりとりするようなフレージングを歌って、それがけして子どもに媚びるようなところがなく、感心した。
14人の音は小さなフレーズをきっかけに、何度か大きな音の渦へと変化していったのだが、Sachiko Mのサイン波が、これだけの人数の合奏の中でも気がつくと忍者のように鳴っているのもおもしろかった。サイン波の周波数が変わるたびに全体の響きが改まり、メロディとかノイズというよりも、音楽の時間を分節していく参照音のようだった。
以上、固有名詞を連ねながら記憶をたどってみたが、実はわたしは、今回の出演者のプロフィールをほとんど知らずに演奏をきいた。だが、それがむしろよかったのかもしれない。きくうちに、それぞれの演奏者の特徴が徐々に浮かび上がることと、アンサンブルが一つの練り物として浮かび上がってくることとが同時にやってくる。相手の演奏のあり方を発見することと、お互いのやりとりのしかたを発見することとが、分かちがたく結びついている。なるほど、これが「ミーティング」ということか。